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丘のさんぽ道(1)
春風の発見
僕は子どもが嫌いだった。うるさい。めんどくさい。そんなものを持ったら何かとたいへん。やりたいことができなくなる。自由が奪われる。だから両親を含めた周囲の人たちにも「子どもはつくらない」と公言していた。
ところがある日、妻の妊娠が判明した。妻は「えらいことやで」と言った。あせった僕がその日まずしたことは、その受精卵に「まりも」という名前をつけることだった。芽生えたばかりの生命を僕の中の逃避的邪念の誘惑から守り、現実を粛々と受け入れるためには、邪念が入る込む前に急いでそれを人格化してしまう必要を感じたのだ。翌日、妻が医者からもらってきた超音波写真には、まさに「まりも」のようにまんまるでポヤポヤしたものが子宮内壁にくっついているのが写っていた。
やがて「まりも」は成長し、外界へ出てきたが、男だったので「丘」(きゅう)と改名した。
さて子どもができてみると、それまでの「子どもはいらない理由」がどれも的外れなものであることがわかった。とにかく驚いたのは、毎日がやたらと楽しいことだ。家中に笑いが絶えない。やりたいことができなくなる、と危惧したその“やりたいこと”をする以上に、今の状況のほうが楽しい。ということは、その“やりたいこと”なんてそう大したことじゃなかったことになる。子どもができたら何かとたいへんだろうとの危惧も、たいへんなことより楽しいことがはるかに多いと人はそれをたいへんとは感じない、ということも知った。未経験のことを“経験したと仮定”して論じることの愚かしさ。
たとえば丘が生後7ヵ月すぎの春、さくらの季節。僕は眠っている丘をおんぶして自転車を漕いでいた。ふと、背中から小さな声が聞こえてくる。漕ぎながら振り返ると、寝ていたはずの丘が目覚めていた。彼は揺られながら口を開け、目を細めて、顔に当たる春の風を口の中で受け止めていた。そして春風に応えるように、「あー」と小さな声を発していた。その光景を見て僕は、子どものころ、まわる扇風機に向かって「あー」と声を出してはビブラートを楽しんだことを思い出した。
生まれて初めて自転車に乗った人の、この姿。あまりのかわいらしさに「くっくっくっ」と笑いがこみ上げた。同時に僕は何か大発見をしたような興奮を覚えた。人間は本来、春風を顔に受けると思わず口を開け、「あー」と声を発してみるものなのだ。そうだそうだ。丘のぬくもりを背中に自転車を漕ぎながら、なんだか妙に目頭が熱くなった。
子どものいる生活とは、こんな不思議な感動が絶え間なく繰り返される世界だった。
丘のさんぽ道(2)
人間がうまれる
夜、家へ帰ると、妻と丘(きゅう、♂、1才7ヵ月)はたいていすでに寝てしまっている。2人の寝顔はそっくりで、ともにクチビルが異様にぶあつい。タラコクチビルの大と小が無防備に並んでいるのは相当おかしい。ついプッと吹き出してしまう。
そして丘の寝顔を見ていると、彼が生まれた時のことをよく思い出す。
丘は、尼崎の藻川のほとりにある中島助産院というところで生まれた。お産を手助けしてくれた2人の助産婦さんは、ともに大正生まれの超ベテラン。
中島助産院は「ラマーズ法」の看板を掲げているが、僕の理解では、ラマーズ法といっても特別な出産法があるわけではない。要は“おまかせ出産”ではなく、産む側がお産の経過をよく理解して“主体的に産む”ことを指すようだ。技術としては呼吸法とリラックス法だけ。助産所のよさはなんといっても家庭的な雰囲気で、応接間のソファでお茶を飲みながら助産婦さんと話したり、助産婦さんがわが家へ来てくれたこともあった。病院のように、機械的に並ばされて大股開きを覗き込まれたあげく“ハイ次の人!”というようなことはない。
朝7時前、陣痛は数分間隔となり、おかゆを食べてから「ヒッヒッフー」をしつつ車で助産院へ。その後2時間あまりの“産みの苦しみ”だった。
真っ赤にいきむ妻の顔は、なんともいえず美しかった。新たな生命を生み出すために自分の命をかけている姿は、存在そのものが美しいとしか形容のしようがなく、ただ圧倒された。
お産をよく知るベテラン助産婦と、産婦をよく知る夫、という取り合わせでお産の手助けをするのは正解だった。各瞬間の妻の思いを僕が助産婦さんに伝えることによってそのつど確認・修正しつつ進められたし、男手は助産婦の助手としても役だったと思う。なぜか、子どものころ毎年家族でやった「もちつき」の雰囲気を思い出したりした。
やがて丘は、頭がへしゃげるほどの残酷な試練に耐え、妻の「ああーっ」という声とともに、まっぱだかで出てきた。そして顔をくしゃくしゃにして、ミニチュアの手足をこごめて号泣した。小さな小さな人が、死ぬような思いをして妻のお腹から出てきて泣いている。
もう大丈夫やで、丘、もう大丈夫やで−。
今も丘の寝顔を見ていると、あの時のことが順々に蘇り、感謝の念が潮のように満ちてくる。
丘のさんぽ道(3)
別れ
丘(きゅう)は、生まれて2ヵ月もたたないうちから、妻が勤める病院の託児所へ毎日あずけられることになった。病院の託児所は、赤ん坊が泣いたら職場の妻に連絡が入り、すぐに母乳をあげに行くことができるというのが利点だった。
最初のうち、丘は特にかわったようすはなかった。しかし成長とともに状況が理解できるようになると、朝の別れぎわ、特に体調が完全でない時など、涙をポロポロこぼしてワーワー泣くようになった。保母さんの話では、母親が見えなくなるとすぐにケロッとして遊び始めるとのことだったが、「それでもあの表情を見るのは辛いで」と妻は言った。
やがて離乳し、歩けるようになり、「バイバイ」を覚えると、別れぎわには“バイバイしなければ”と思うのか、泣きながらも手を振るようになった。「その姿がまた不憫やねん」と妻は語った。
この病院の託児所は「2才まで」のため、丘は1才7ヵ月になったこの4月から、市立の「住吉公園保育所」へ転所した。朝は8時からしか受けてくれないので、僕が送っていくことになった。
保育所には「ならし保育」という期間が1週間ほど設けられている。初日は1時間で帰り、次の日は2時間……というふうに少しずつならしていくというものだが、これは丘には酷だった。
まず、朝7時すぎに仕事に行く母親と涙の別れ。8時になったら僕と保育所へ行き、今度は父親と涙の別れ。途中で母親が仕事を抜けて迎えに行き、そのまま病院の仮設託児所へあずけられてまた別れ。1日に3回も親に捨てられた丘は、夕方にはすっかり怒って、妻が迎えに行ってもチラッと横目で見るだけで、無視してミニカーなどで遊び続けている。でも数十秒後にはこらえ切れなくなって、涙をポロポロこぼしながら母親に駆けより、抱きつくのだという。「その姿がまた不憫やねん」と妻は語った。
毎朝、丘と涙の別れをすることになった僕も同じだった。保育所に着いて荷物を置くあたりまでは、「でんしゃ!」などと叫びながら大喜びで走り回っているのだが、僕が「ほな、バイバイ」と言うなり、みるみる顔をゆがめて涙をあふれさせる。彼を置いて保育所を出たあともその残像が胸をしめつけ、引き返そうかと思ったことも何度かあった。
ああ、それなのにそれなのに。ほんの2〜3日ほど前から突然、丘は教室へ入るなり軽い口調で僕に「バイバ〜イ」と手を振り、くるりと向き直って友達のところへ走っていくようになった。1才9ヵ月、あまりにあざやかすぎる変身だった。
「こいつ、もう赤ちゃんを卒業しやがった」
ああ丘よ、泣きながらトータンに抱きついてくれ。
丘のさんぽ道(4)
託児所
僕が生まれた頃の寝屋川は、今からは想像もつかないほどの田舎だった。わが家のすぐそばには牧場があってしぼりたての牛乳を飲めたし、畑からはいちごを盗むこともできた。裏の田んぼには春になると水面が盛り上がるほど小ブナが湧き、蓮池のふちに並んだサトイモの葉で空手チョップの練習もできた。
ところが小学校に上がる頃から寝屋川市は人口増加率日本一となり、あっという間に田んぼはすべて埋められ、牧場は国道に化けて、わが故郷は灰色の衛星都市になり果てた。幼少期のこの悪夢のような事件は、僕の現在のひねくれた性格の大部分をかたちづくり、怨念として今でもよく夢に出てくる。
さて、僕の妻は産後6週間で職場に復帰した。そのため丘(きゅう)は、首もすわらないうちから、妻が勤める病院の託児所へ毎日あずけられることになった。妻の勤める病院は、緑の樹々に囲まれ、神戸港が一望できる六甲山の中腹にある。鳥がさえずり、中庭にはイノシシが出没する。
託児所は、そのいちばんすみっこにある木造の古い平屋があてられていた。昔は医師の住宅だったそうだが、今では廃屋寸前といっていいくらいのボロ家で、病院側の「お情けで託児所を一応用意してやってる」的姿勢まるだしの施設だった。ここに、看護婦の0〜1才の乳児ばかり8〜10人ほどがあずけられていた。4〜5人の保母さんはみんな若く、「ほんとはまともな保育所に勤めたいけど保母は就職難でこんなところしかクチがなかったのよ」的状況が一目瞭然だった。
でも、ここにはそれを補ってあまりある環境があった。僕はたまにしか送り迎えをしなかったが、木立ちを抜け、あじさいの花に腕をさわられながら古いボロ家の戸を開けると、なんだか故郷のおばあちゃんの家に遊びにきたようななつかしさとうれしさを感じた。四季おりおりに花が咲き、いつも緑の風が吹いていて、夏は縁側で小さなプール。陽のさしこむ畳部屋で若い女性と赤ちゃんたちがじゃれ合っている情景は温かく、その中に自分の息子が混じっているのが不思議でならなかった。
保母さんたちは、そんな中で遊ぶ丘の様子を毎日「れんらくちょう」に書いてくれる。幼い子どもを人にあずけることに最初は少なからぬ心理的抵抗があったが、親の目の届かないところで育っている丘の姿を「れんらくちょう」から想像するのは実に楽しかった。たぶん僕は、そこにいる丘の中に、失った風景の中で遊ぶ自分自身の姿を見ていたのだろう。
先の地震はこのささやかな託児所を廃材の山に変え、個人的感傷も大混乱の中に埋没していった。
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