丘のさんぽ道(22)
葬式

 4月は3週続けて葬式に出た。
 最初は僕の母の葬式だった。次の週は妻の叔父、そのまた次の週は妻の姉の夫の父親だった。
 僕の母の葬式は、寝屋川の葬儀業者の葬儀用会館で行われた。あとの2つは田舎の葬式で子どもがいっぱいだったが、母にとって孫は丘(3才)1人だけなので、その葬式では子どもは丘1人だった。丘は母を「みっちゃん」と呼んで慕っていて、しかもそのみっちゃんが死んでいくさまをベッドサイドでじっと見ていたのだが、それでもやはり葬式の意味はわからないようで、1人はしゃいでいた。参列者をかけっこにさそったり、みんなが泣いているのを見て「泣いたらあかん」と叱ったり、大喜びで棺桶に花を入れたりした。

 僕は丘が生まれるまでは「子どもはいらん宣言」をしていたし、今でも子どものいない人生も悪くないと考えているし、ましてや子どものいない他人に「子どもを一度は育ててみるべきだ」なんていうことは決して言いたくない。
 しかし母の葬式の時だけは、丘がいてよかった、と心から思った。
 もしあの場に丘がいなければ、高齢の人が多かった参列者たちは、死んでゆく仲間の姿と、次は私の番かといった思いから、寂寥感と孤独を感じずにはいられなかっただろう。僕にしても、最愛の肉親を亡くした悲しみ以外に覚え得る感情はありはしなかったはずだ。ただでさえお母さん子だったから、ひょっとすると冷静でいられなかったかもしれない。
 しかし丘が走り回っていたおかげで、「これはバトンタッチの儀式なのだ」と気付くことができた。丘はまぎれもなく僕と妻の産んだ子どもだが、しかしこの時、走り回る丘の姿を見て、「母は一粒種を残したのだ」と感じた。僕はどちらかというと“血のつながり”といった言葉のもつ保守的な匂いに反発を感じるほうだが、しかしこの時ばかりはその事実をきわめて肯定的にとらえていた。
 死んだ母と残された父は、僕が「子どもはいらん宣言」をしていたころからずっと孫をほしがっていたが、この期に及んで自分がそれに応えられていることに僕はなんとなくホッとした。そして子どものいない姉に少しだけ申し訳ないような気もした。
 葬式は、子どもの存在によって完成する儀式ではないだろうか。

 母が死んだ日、自宅の冷蔵庫が動かなくなった。葬式を終えて修理屋を呼んだが治らないので、捨てることにしてマンションのドアの外へ出しておいた。すると外から帰ってきた丘が、大好きな冷蔵庫(アイスキャンデーやヨーグルトが入っているから)が表へ出されているのを見て、ビックリして部屋へ駆けこみ「なんで?」と尋ねる。「冷蔵庫、死んでしもたんよ」と言うと、丘は再び冷蔵庫の前へとって返し、手を合わせて熱心に拝んでいた。
 その次の週の葬式では、参列者がまだ泣いていないうちから「もう会われへんから、泣くの?」と母親に聞いていた。丘も少しずつ「死」の意味を理解しつつあるようだ。

 ところで母の死以降、「人はなぜ生きるのか」という、古典的かつ陳腐な命題についてしばしば考えるようになった。生きて、死んでいった母の人生は何のためのものだったのだろう。何を残したのだろう。結局その答えは“風に吹かれている”わけだが、少なくとも母は僕を産み、僕は丘を産んだという事実があり、その事実は今も生きて日々を暮らしている。そして、そこから派生するもう1つの古典的命題「この世で一番辛いことは何か」には、これまた陳腐ながら、かなりはっきりした答えが見つかっている。
 つまり、子どもに先立たれることだ。

丘のさんぽ道(23)
夏の川

 お盆休みは妻の実家へ帰った。
 妻の実家は兵庫・岡山・鳥取3県の県境にある小さな町の町はずれ。家のすぐそばを清流・千種川が流れていて、パンツいっちょうで川に出ては泳いだり魚を獲ったりできる。
 僕はそこで3日間、高密度に遊んだ。
 朝は早起きして近くの大森神社や板馬見渓谷へ虫とりに出かけ、その後、義母の畑の草むしりを手伝って汗を流し、そして一気に川へザブーン。唇が青くなるまで魚を追い回したら家に戻ってそうめんとビールをよばれ、ガアーっと昼寝。外が暗くなったら花火……と、まるで“正しい小学生”だ。でも、そうするのが一番楽しいのだから仕方がない。
 都会のマンションで汲々と暮らす僕にとってはあこがれの、究極の贅沢な暮らしがそこにある。8月で4才になった丘や小中学生の甥や姪も連れて、“どうだ、これが夏だ”とばかりに貪欲に遊んだ。

 ところが、そんな田舎の夏休みに、ひとつ意外なことがある。地元の、近所の子どもたちの川で遊ぶ姿があまり見えないことだ。近所に子どもがいないわけではない。小中学生や、丘と年の近い子も何人かいる。でも、馬の目の前にニンジンをぶらさげるがごとき清流がそこにあるというのに、泳いでいる姿はあまり見ない。
 最初は、地元の子はいつも泳いでいて飽きているのかなと思ったが、そうでもないらしい。「一緒に川行くか?」と誘うと、目を輝かせてうれしそうについてくる。聞けば「今年はこれが初めて」だったりする。そして、高学年の子でも魚獲りは全然ヘタで、僕がウグイやアブラハヤやシマドジョウなどの雑魚を網や手で捕まえていると、逆に「名人」と言われたりする。
 妻に聞くと、「私の頃は夏は毎日、1日中川で遊んでいた。近所のエイサク君は魚獲りや虫獲りの名人で、いつもウナギやクワガタをいっぱい獲っていた」という。
 そのエイサク君は高校を出てからも村に残り、今では3児の父となってそうめんを作っているが、彼の子どもたちでさえ川にはめったにいない。魚獲りもヘタクソだ。どうやら今は「子どもだけで川に行くのは禁止」らしい。そういえば僕が地元の子どもを連れて川へ行くと、たいてい少しあとからその子の母親が「どうもすみません」と言いながら、申し訳なさそうな(ちょっと迷惑そうにも見える)表情で現われ、僕たちが遊んでいるのを川べりにしゃがんで見ている。僕の妻が妊娠6カ月のデカ腹もかまわず泳いでいても、彼女らは決してふくらはぎより上を濡らそうとはしない。
 元・魚獲り名人のエイサク君は、3人の子どもたちにそれぞれ自分の部屋と自分のテレビを与えているという。そして子どもらは、例によって昼間からテレビゲームにどっぷりとつかっているらしい。それ自体は非難されることではないのだろうが、しかしエイサク君の名人芸が伝承されないのはなんとしても残念だ。
 テレビゲームは都会も田舎も関係なく押し寄せている。それによって得られるものは同じでも、失われるものは田舎のほうが多そうだ。ただし現状の背景としては、テレビゲームの普及の前に、それを招いた必然としての親の側の変化ないしは都合があったのではないか、と僕は感じている。
 そしてそれと同時進行的に、この川もまた随所で流路を人為的に変形させられ、都会からの釣人とオートキャンパーのための有料レジャー施設と化しつつある。

丘のさんぽ道(24)
母語

 東欧の民主化とともに、チェコスロバキアという国が「チェコ」と「スロバキア」に分裂した。民族が違う、というのが表向きの理由のようだ。ではどれくらい異なっているかというと、どちらも西スラブ族に属し、顔つきは同じ。歴史的には双方とも長くオーストリア・ハンガリーの支配下にあり、宗教も同じ。となると違いは言葉くらいで、それぞれの公用語はチェコ語とスロバキア語となっているが、この両言語の違いをある日本人学者は「大阪弁と京都弁ほどの違いもない」と表現した。にもかかわらず、貧しい「スロバキア」のほうが、豊かな「チェコ」による文化侵略を嫌って分離独立を主張したという。

 さて、もともと大阪人は言葉に対して変なプライドがある。コンプレックスとその裏返しの対抗意識から、特に東京語のイントネーションを嫌う。僕が子どもの頃は東京弁はイジメの対象になっていたし、今でもテレビドラマで関東系の俳優が妙な関西弁をしゃべっているのを見ると思わずビールびんを投げつけそうになる(とくに中村雅俊はひどい)。大阪人の中には、東京に行くとふだん使わないようなコテコテの大阪弁をわざわざ大きな声でしゃべるバカも少なくない。

 そもそもの危機感は、妻の話す言葉だった。妻は兵庫県と岡山県と鳥取県の県境の村出身だが、近畿地方といえどそのあたりになると中国地方のイントネーションに似てくる。で、中国地方の言葉というのは、語彙は近畿に近いがイントネーションは関東に近い(というより、近畿地方のイントネーションだけが日本語の中で独特なのだ)。
 そんな妻と2人で丘(4才)を育てながら、「丘はどっちの言葉を話すようになるのだろう」と漠然とした不安を抱いてはいた。それでもまあ、妻は中国なまりでも神戸に住んで長いし、僕は大阪生まれだし、現住所も神戸なんだから大丈夫だろう、とタカをくくっている部分はあった。

 しかし現実は、そんな楽観をぶちのめすほど冷酷なものだった。
 丘は言葉をほとんど解さないうちから、託児所でノンタンのビデオを知った。それを見せるとクギづけ状態になるから、家事をするときなど邪魔されず、便利さのあまり家でも買ってしまった。丘はそれを丸暗記するまで繰り返し見た。続いて彼は電車に凝り、バカな親は彼の喜ぶ顔見たさに鉄道ビデオを次々に買った。そして当然のことながら、それらはすべて東京語のものだった。
 同時に丘はテレビで「おかあさんといっしょ」などを見るようになり、やがて「アンパンマン」「ドラえもん」を始めさまざまなマンガ番組や実写バトルものを楽しみに見るようになる。もちろんこれらもすべては東京語。しかもそれをバカ親はことごとくビデオ録画し、バカ息子はことごとく暗記に努めた。
 東京語をインプットするのはメディアだけではなかった。絵本を読むとき、人形劇をするとき、寸劇でセリフを言わせるとき、なぜか妻も保母さんたちもみんな東京語のイントネーションになってしまうのだ。
 まだある。かくいう僕も、丘のたどたどしい言葉(東京語)のかわいらしさのあまり、それに合わせて同じイントネーションで言葉を返してしまっている。
 かくして丘は、いや丘だけでなく保育所の同クラスの子どもはみな、「こいつらいったいどこのガキや?」と言わざるを得ないような無国籍チルドレンとなってしまった。ちょっと寒気のする、由々しき事態だ。

 4才になってやっと、丘は正しい関西弁を数語おぼえた。ただしそれらは、スタジオジブリのアニメ「火垂るの墓」(戦時中の神戸が舞台で、声優はすべて正しい関西弁をしゃべる)に出てくるセリフに限られている。
 もはやあきらめた。ああ、誇り高きはスロバキア人たちよ。  

丘のさんぽ道(25)
「死ぬの?」

 妻の3回目の妊娠(2回目は流産した)の月数が進んでお腹が大きくふくれてくるにつれ、丘(4才)は退行現象を見せるようになった。ぐずる、ごねる、ちびる、反抗する、といった幼児的諸症状で攻めてくるが、これは母親の妊娠・出産に対する子どもの正しい反応であるそうだ。
 しかし妻が産休に入ってからはさらにひどく、ものを投げる、食い散らかす、親を蹴るなど暴力傾向も出ている。同時に、妻にやたらベタベタとまとわりつき、父親の僕を極端に軽視する。出産がまじかに迫るここ数日は、テレビを独占してドラえもんのビデオを何時間も繰り返し見ている。ビデオが終了して画面が砂嵐状態になっていても、スイッチを切ると泣き叫ぶ。そしてテーブル上に仁王立ちになったかと思うとそのまま後ろに転げ落ち、椅子で後頭部を強打して号泣し、涙を拭くタオルを持ってこいと命令しつつ再びテーブルに登る、という不可解な行動をとる。
 まったく、自分で自分をコントロールできないようだ。これまで祖父母の臨終の場面に立ち合い、「死」には慣れている丘も、「誕生」は未経験だから(いや、正確には先々週、わが家で飼っている熱帯魚のプラティが25匹の稚魚を産んだのを見ているが)、いったいなにが起こるのかと不安なのだろう。たしかに妻のお腹は、どこから見ても異様に巨大化しているし、ドカンと前に突出して相当な迫力だ。

 そんなある日のこと。妻と一緒に風呂に入った丘は、妻のお腹をしげしげと眺め、しみじみこう言って妻を笑わせた。
 「大きくなったなあー」
 そのあとパジャマを着てから、かたずけものをする妻に、静かにこう問うたのだそうだ。
 「おかあさん、死ぬの? 死ぬのを待ってるの?」
 「え?」
 「赤ちゃんを産んだら死ぬんでしょう?」
 妻が驚いて「なんで?」と聞くと、
 「だって、お腹がパカッと割れて、死ぬんでしょう?」
 ここで妻は大爆笑。
 「ちがうで、丘ちゃん、ここに赤ちゃんが出てくる穴があるんやで」
 妻が股間を指差すと、丘は妻のパジャマのすそから覗き込み、
 「あながあった」
 と恥ずかしそうに言ったそうだ。そして、
 「赤ちゃんを産んでも死ねへんねんで。ほら、こないだプラティちゃんが赤ちゃんをようけ産んだけど、元気やろ?」
 と妻が具体例を挙げると、すっかり安心したようで、丘は何とも嬉しそうにピョンピョン飛び跳ねたという。

 そういえば、ふくれあがった妻の腹は、今春、肝臓がんが破裂して旅立った僕の母の、死の直前の腹に似ていなくもない。母が死ぬ2時間ほど前、その腹腔内出血でパンパンにふくれあがった腹を、丘は自分の手でさすっている。その時じかに触れた手のひらの感触が、死のイメージとして彼の中に残っていたのだろうか。

 さて、2人目の赤ん坊はすでにもういつ産まれてもおかしくない状態にある。「いつごろになりますかね?」と産婆さんに聞くと、「それはお兄ちゃんが知っているはず。お兄ちゃんに聞きなさいな」と言われる。たしかに、日に日に傍若無人になっていく丘は、何か見えないものを感じ取っているのかもしれない。
 話によると、赤ちゃんが産まれたら上の子は「さらに退行する」のが常らしい。
 ……くれぐれもお手やわらかに願いたいものだ。

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