恐怖の質問
そういや先日、ある知人との間で話題になった。
「サンタさんって本当にいるの? もしかしておとうさん?」
そう子どもに聞かれたとき、あなたなら何と答えますか?
いくら子どもが喜ぶからといえど、モロに騙すわけですから、俺は最初の年からどうも腰が引けていたのです。
で、丘は9歳ですから、そろそろ「なんか怪しいな」と感づく頃です。去年までは「何をもらいたいの?」とさりげなく聞いて、それを買っておいたのですが、今年はなぜかいくら聞いても教えてくれません。何か考えているようです。もしかしたら25日の朝あたりに、詰問されるのかもしれません・・・。
い、い、いやだーーーこわいーーーー。
サンタとは?
サンタの意味について考えた。
元々サンタは、トルコかどこかの奇特な人が恵まれない子どもの家の煙突からオモチャを投げ込んだのが始まりとか。
つまり、
(1)サンタは足長おじさんである。
足長おじさんは小市民のあこがれである。イブの夜は、そこらへんの小市民が足長おじさん気分にひたれる夜である。
しかし、足長おじさんはあくまでも恵まれない子のためのものだ。プレゼントを買ってやれる親の子どもは対象外である。それに足長おじさんは、自分とは無関係な子どもたちのために存在している。したがって、
(2)自分の子どもにプレゼントをやるのはサンタ行為ではない。
逆に、親にプレゼントをもらえない子どもにプレゼントをあげる人がいたら、その人はまぎれもなくサンタである。
いっぽう、日本の一般家庭の子どもたちはたいてい親にプレゼントをもらう。この時点で本来ならばサンタの対象外だが、その子たちにとって問題は、プレゼントをくれるのが「親」であるのと「サンタ」であるのとでは、どちらが好ましいかということだろう。
親が子に何か与えるのはいわばあたりまえ。そのことは子どももわかっている。子どもにとってサンタが重要なのは、親でもない誰だか知らない人が、利害関係のない自分にプレゼントをくれるという不思議さである。
親がくれるプレゼントには、良くも悪くもいろんな親の思いが詰まっている。行間に「いい子(親にとって)であってほしい」という気持ちがにじみ出る。しかしサンタはその子どもとの間に利害関係がない。ということは、
(3)サンタのプレゼントは無条件である。
知らないおじさんが無条件で、ただでプレゼントをくれるという行為には、その子に対する評価は一切含まれない。つまり、
(4)サンタのプレゼントは、その子自身への全肯定である。
ここで、サンタのもう一つの側面が浮上する。
昔は、親でもないのに子どもたちをかまってくれるおじさんが近所に一人はいた。嵐山光三郎的に言うならば、「昼間っからブラブラしててメンコなどがやたらとうまい変なおじさん」だ。変なおじさんは子どもらに対してなんらの責任も義務も負わず、無条件に子どもと遊ぶだけだ。
が、今やそういうおじさんは都会では絶滅した。そのため子どもたちは、利害関係のない大人から無条件に相手にしてもらう機会がめったになくなってしまっている。
その意味において、利害なき無条件の全肯定を体現するサンタは、子どもたちにとって得難い貴重な存在となった。ようするに、
(5)サンタは変なおじさんの代役である。
近所から変なおじさんがいなくなったことで、現代の子どもたちが出会う大人は親と先生だけになった。あとは親戚か友だちの親、ほかにスーパーのレジのおばさんくらい。いずれの人間関係にもしがらみやカネが挟まっている。
これは息苦しい。しかも少子時代であり、子どもたちに注がれる大人たちの視線は狭くて熱い。ますます息苦しい。だからこそ、
(6)親からプレゼントをもらえる子どもにとっても、利害なきサンタの存在は重要である。
結局、現代においては、
(7)恵まれない子も恵まれた子も、サンタを必要としている。
結論として、
(8)親が子にプレゼントをやるのはサンタ行為ではないが、それを「サンタさんからだよ」と言うことは許される。
以上、あえて「夢」といった側面は除外し、機能面で詰めてみた。
これだけ考えないと安心してプレゼントもやれないとは、まったく困った性分だ。
サンタを肯定するならば
商業主義と結託した西洋の風習には抵抗を感じつつも、サンタ解析をするうちなぜか超肯定的な結論が導かれてしまった。
サンタを批判することは難しい。だからクリスマスにかこつけた各種の商売が栄え続けるのだな。
というわけで最後に批判だ。
(9)サンタの精神を肯定するならば、暖衣飽食の我が子に与える前に、まずアフガンの子らに送るべし。
どひゃーーー、自虐テロ!
(2002年12月の日誌より)
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