いのちジャーナル1999.7に対する読者の声

医者だけでなく製薬企業と厚生省をたたくべき/大阪府・S(元新聞記者)
 7月号「新聞にウガつ!」を読んで。鶴田さんだから、もう少し深い読み方をしてほしいと思って敢えて一言。
 今、医療をめぐるさまざまな動きの中で、日本医師会は確かに旧態依然としている面が多々ありますが、新聞記事の書き方も「医者」を悪者にして済ませている点では同じくらい古い体質です。
 「厚生省が薬剤費抑制のために検討してきた」だなんて、とんでもない。日本医師会のやり方はともかく、白紙撤回になってよかったのです。本当に医療費を抑制したいなら、無効で有害な多くの新薬、ローカルドラッグを使えないようにするほうがよほど確実。だから厚生省案自体が問題でしたから、検討し直しで大いに結構なのです。確か、読売も同様に「日本医師会の横やりで……」みたいに表現していましたが、こういう記事の書き方は、厚生省の中にある「厚生省クラブ」での一方的な発表記事です。
 また、カルテ開示問題についても、日本医師会は団体として反対していますが、たとえば医師会とは別の医師の団体は、患者への情報提供について真剣に対処しようとしていますし、大きな流れとしてこれは逆らえないことでそう遠くない将来に実現するでしょう。
 むしろ、情報公開の面でもっと強くたたくべき相手は、製薬企業と厚生省です。これまで公開していた情報を公開しなくてもよいと、国会での議論もなく閣議決定したのですから。新薬承認の根拠となる臨床試験データなどは学会雑誌などに公表が義務づけられていましたが、来年4月からは公表しなくともよいということになったのです。論文がたとえいい加減なものであっても、じっくり読むことでいい加減だということもわかるのですが、その論文自体が公表されない。臨床試験にたずさわった研究者が公表したくとも、メーカーが知的所有権を楯に反対すれば公表できないのです。メーカーに論文の所有権があるという判断です。人の生命や健康など公共の利益よりも、私企業の知的所有権が優先されるという、とんでもない解釈です。
 しかし、なぜかこのことはほとんど報道されません。新聞などは製薬企業も大切なスポンサーですから、とことん攻める記事は書きません。
 「医者」という目の前の敵(?)は叩きやすいし、読者(患者)にも受け入れられやすいのだと思います。製薬企業と厚生省の癒着は、言葉としてはよく使われるものの、あまりに大きな構造すぎてどう叩けばいいのか料理しづらいのでしょうか。たとえば、健康保険組合連合会の副会長で専務理事の下村健氏は、厚生省からの天下りで、まあ、堂々とメーカー擁護の発言をなさいます。健保連の副会長と言えば、本来は患者(国民)の代表であり、無駄な医療費の支払いに目を光らせる立場のはずですのに。
 新聞記事というものは、記者が取材する、デスクが取り上げる、トップの判断といったそれぞれの段階で大きなバイアス(偏り)がかかっているものでしょう。鶴田さんだからこそ、記事の背景にもっと迫真して、もっと穿って、書いてほしいと思います。

ドナーの病気は公開されなければならない/京都府・勝村久司(医療情報の公開・開示を求める市民の会)
 本誌7月号に、船山泰範氏の「脳死臓器移植で、情報公開とプライバシー保護は矛盾しない」という記事がありました。ところが私は本誌5月号に「両者は強く対立しそれは『人間の臓器を提供する』という脳死臓器移植が本質的に持っている特有の矛盾だ」と書きました。
 船山氏は、「病気そのものが個人のプライバシーの中で、もっとも大事なものの一つであることはいうまでもありません。病気は個人史の一側面でもありますから、本人が同意している場合は別として、他人が暴くことは個人の尊重という憲法上の理念(憲法 条)に反することになるのです。」と書かれ、ドナーの病気については公開してはいけないとされています。ドナーの病気について公開する必要がないのなら、たしかに情報公開とプライバシー保護は矛盾しないでしょう。しかし、ドナーから提供される臓器はレシピエントからすれば薬と同じような側面があります。薬ならば、それがどのような成分でどのような副作用があるかを知らせる必要があるように、提供される臓器がどのような状態であり、どのような病気にかかっているかは、公開されるべき大切なデータではないでしょうか。
 脳死臓器移植が健全に行われるためには、船山氏も書かれるようにあらゆる観点からの情報公開が必要ですが、私はさらに、ドナーの病気についても公開が必要だと考えています。ところが、やはり船山氏も書かれているように、病気は個人のプライバシーですから、そこに矛盾が起こることになります。
 脳死臓器移植1件1件が臨床試験のような性質がある中で、国民がこの一つひとつを検証し脳死臓器移植を受け入れていくか否かを検討する材料として、提供される臓器の情報(性別、年齢、既往症、重量、等々)は必要な情報の1つだと思います。動物の臓器を移植するならば、その動物がどんな病気だったかを公表してもプライバシーの侵害にはなりません。また、人工臓器のように、画一化された人工物を移植する際にもこのような点は問題になりません。しかし、個々の人間の臓器を提供する際には、それが問題として生じるわけで、私はそれを「矛盾」としました。
 しかし私は、5月号でも書いたように、その解決法はあると思います。薬が臨床試験の際に起こった副作用報告をまとめて公開するときと同じように、個人を特定するためだけの情報を伏せればよいわけです。だから、脳死臓器移植ではあらかじめ「ドナーの名前や住所などは公表しないが、性別・年齢・既往症等は公開しなければならない」と説明しておいた上で公開することが理想だと思います。私自身、ドナーを特定したいというような興味はまったくありませんが、「どのような薬が臨床試験の際にどのような人に投与され、その結果どうなったのか」を知りたいように、「どのような臓器がどのような人に移植され、その結果どうなったのか」は、臓器移植法の下に生きる一国民として知りたいのです。

見切り発車の移植が増える/東京都 S・Y(看護婦)
 7月号「本当は恐ろしい高知の脳死」(近藤孝)を読んで。都内の大学病院救命センターに在籍した時、脳死法案成立前に移植(提供のみ)を経験しました。若い人が脳内出血で運ばれると治療しても、植物状態より少し良くなるくらいで、手術するかどうか迷われます。植物状態になっても、しっかりサポートしてくれる社会でない以上、見切り発車される移植医療が増加していくのではと心配です。
 同号「ああホームヘルパー」(松崎有子)を読んで。ヘルパーさんがプロ意識をもち、仕事に対し、前向きにとりくまれてるのには頭が下がる思いで読みました。すべての看護婦がそうだとはいいませんが、プロ意識がなく、仕事もせず看護婦免許をもっているだけの人が多いのが現実です。ただ1点だけ、ヘルパーも医療行為を行なうことについてですが、プロ意識をもつ者ばかりではないので、あまり賛成できません。
 それよりも、医者、看護婦、ヘルパーがそれぞれの職に対する向上心をもち深めていくのと同時に、今一度、それぞれの役割を考え直すべきなのかもしれません。それと同時に、各職の連携ももっととっていくべきと思います。

男性や医師の考えを聞かせてほしい/徳島県 K・N
 7月号「特集・産婦人科での不愉快な体験はどこがどう問題なのか」を読んで。妊娠\出産にまつわる不快な経験のみならず、タブーとされる中絶や、流産、不妊治療についても女性のみがその責任や心身の負担を追わされ、一生その苦しみを背負って(だれにも相談できず)いかなくてはならないことを、男性はどう感じているのだろうか。
 唯一の味方となってほしい医師に、さらに忘れることのできない心身の苦痛を味わわされた女性は、数知れないと思う。一度そんな特集を組んで、読者の体験をもとに、男性及び医師の考えを聞かせてほしい。また、そのような体験に悩む女性がいかに多いかも知ってほしい。

社会的入院は増えている/新潟県 S(看護婦)
 7月号「日本のセルフヘルプグループ」で「呆け老人をかかえる家族の会」の方々が心配されているように、介護保険が始まるとますますお年寄りの行き場がなくなり、在宅も希望しても支援を受けられない事態になるのではないかと心配です。
 私の働いている病院でも「社会的入院患者」さんが増加して、赤字も増して、リストラされようとしています。人員削減と老人用の要介護病院のはざまで困っています。国をはじめ県の病院つぶしはひどいもので、住民の意見を無視して強行しようとしています。

責務は医療側にあり、「信頼」は結果/埼玉県・T(会社員)

 6月号「ウソか誠か」(近藤誠)を読んで。「カルテ開示をめぐって」は『朝日メディカル』5月号にも掲載されました。辻本さんの発言は短いものでしたが、その発言内容には不審な感じが残りました。「ウソか誠か」でその詳細がわかりましたが、「患者の責務」という表現があったことを知り、驚きました。患者の責務というなら義務は医療費の自己負担の支払以外にはないと私は思います。他方、医療は、傷害行為を目的によって正当化するという面をもつものであり、ゆえに医療者側にははっきり「責務」があります。カルテ開示の法制化はそれを示すものであると思います。
 医療を語るとき、ほとんど必ずといっていいほど、医者と患者との「信頼」が大切といわれますが、もしかするとこれが、議論を迷路に追い込んでいるのかもしれないと思います。宗教以外のあらゆる職業と同じく、はじめにあるべきは「信用」ではないでしょうか。「信頼」は美しいものですが、結果であると私は思います。

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