おそろしや「脳死」臓器移植 松本康治 1999年8月、メルマガ『カルチャーレビュー』より |
あらゆる角度から、いくらでも、日本の「脳死」臓器移植に関する問題は挙げることができる。というより、実は全部がおかしい。全部がおかしいようなことが堂々とまかり通っていることが一番おかしい。 で、僕の発行する「いのちジャーナル」ではそのおかしい点についてひとつひとつ指摘しているのだが、ここでは、まだあまり指摘されていない3つの大きな誤解に絞って述べておこう。すごく基本的なことだけど。 誤解1 「脳死になったら……」という言説 たとえば「ドナーカードを持つべきか持たざるべきか」について考えるとき、これまでは「脳死になったら、あなたは自分の臓器を提供するかどうするか」というような言い方で語られてきた。しかしその命題は、現代医療の実態を知っていれば成り立たない、ナンセンスなもの。正しくは、「あなたが事故などで倒れたら、助かる可能性があっても臓器を待つ人のために治療を途中でやめてドナーとなるか」が問われるべきだ。 かなりの極論に聞こえるかな? でも実はそうではない。その理由を説明します。 臓器移植法は、「脳死体」からの臓器提供について定めているが、その付帯決議で、その「脳死体」とは「あらゆる適切な治療を施した末」に脳死となったものであるとしている。 そりゃそうだろう。「脳死」ドナーとなるのは、さっきまでピンピンしていた元気な臓器の持ち主。つまりは、交通事故とか、脳の血管がいきなり切れたとか、自殺とか、射殺とか(アメリカの場合ね)、ようするに突然のアクシデントにみまわれた人であるから、その突然の出来事に驚きパニクって必死に患者の名を叫びまくっている肉親にとって、中途半端な治療しかしてもらえずに「臓器ください」と言われたって、「はいどうぞ」なんて言えるはずがない。普通、そういう家族は奇跡を祈る。 したがって、医師らの懸命な救命活動もむなしく、奇跡もついに起きず、叫び疲れた家族が、せめて患者の一部でも生かしたい、との最後の思いでハンコをつく、それが臓器提供であるはずだ。で、臓器移植法にも「そうしなさい」と書かれたわけだ。 でも、臓器提供施設の救急医や移植医は知っている。そういう臓器はもはや使いものにならないことを。 なにしろ、さっきまでピンピンしてた人だから、そう簡単に「脳死」にはならない。 臓器移植法施行後1例目となった高知赤十字病院の事例(2月28日)では、正式な脳死判定まではやってはならないことになっている「無呼吸テスト」(人工呼吸器を10分間止めて自発呼吸がないかどうか調べるテスト。どうして「やってはならないことになっている」かというと、瀕死の人にそんなことをしたら死んでしまうから)を何度も繰り返し、その上で正式な脳死判定をやったのだが、それでも「脳死でない」との結果が出た。その翌日、仕切りなおしで行われた脳死判定で、消えない脳波は「ノイズ」として処理され、晴れて正式に「脳死」と判定されたが、いよいよ臓器を摘出するぞと皮膚を切開したとたんに血圧が上昇し、あわてて強力な笑気ガス麻酔が行われている。 おそらく、麻酔をせざるをえないなんらかの「出来事」があったのだろう。岡本隆吉氏(脳死・臓器移植に反対する関西市民の会代表)は「摘出できないほど手足を動かしたに違いない。脳死ではなかったということだ」と言っている。 これについて、あるホームページでは、移植推進側の「脊髄反射を抑えるために麻酔したのでは?」という意見が紹介されていた。一見もっともらしく聞こえるので、ちょっと話が横道にそれるが、念のためにもう少しくわしく書いておこう。 実は、厚生省の公衆衛生審議会に提出された移植コーディネーターの資料には、ガス麻酔の根拠として「(ラザロ徴候?)」とカッコ付き・ハテナマーク付きで書かれている。これは、昔キリスト教信者のラザロという人が、死んでから手をゆっくりと胸のところで合わせて拝むような形にしたということで、その人の名前をとって生まれた言葉のようだ。 でも普通の感覚で考えて、そういう類のゆっくりとした反応のために笑気ガス麻酔をすると思えますか? 少なくとも、その場にかかわった人たちの資料には、「脊髄反射」といった表現は一切書かれていない。「脳死」下で臓器摘出が困難なほどの脊髄反射が予想されるなら、事前に普通の麻酔をしておけばすむことだろう。第一、あわてて笑気ガス麻酔をしなければならないほどの「脳死者」の「脊髄反射」って、どんな反射なのか(もしそういう大きな反射がありうるというなら、それこそその具体例として論文にして発表すべきだろう)。 ちなみに東京医科歯科大学の古川哲雄教授(神経内科)によると、最近アメリカでは「脳死」患者から臓器摘出するさいにモルヒネを使うようになってきているそうで、古川教授は「医師らに何か不愉快な経験があったと、どうしても考えざるを得ない」と言っている。このことは脳死判定の不確かさの議論につながるが、それはよそでも指摘されているので、ここでは割愛する。 本題に戻ろう。 とにかく、さっきまでピンピンしていた人間は、そう簡単に「すべての脳機能が失われた」状態にはならないようだ。 1993年の関西医大事件では、クモ膜下出血で倒れた29才の看護婦から腎臓を取り出す準備として、瀕死の患者の大腿部を切り裂き、冷却水かん流用のカテーテル設置手術までしたのだが、それでも「脳死でない」との結果が出た。後日、裁判所に提出されたカルテに、主治医は「持ちなおしている!」(ビックリマーク、ママ)と書き殴っている。 それでも強引に摘出した彼らはツワモノというか、ようするに確信犯なのだが、そうではない真面目な救急医は、プロとして当然、法に謳われた通りの「あらゆる適切な治療」をする(と信じたい)。その治療の代表が、脳低体温療法と呼ばれるものだ。 これは、1週間くらいのあいだ体温を32〜33度に冷やして、脳の腫れを抑えてダメージ回復を待つ治療法だが、これを開発した日大板橋病院の林成之教授らが、現代医療では救命できない段階(非代償期……脳死直前の状態とされる)の患者を含む最重症の脳障害患者にこの治療をしたところ、約7割が社会復帰した。 1割や2割が助かったのではない。7割ですよ。中には職場復帰を果たした人もいる。それくらい、脳の機能、人間の生命力というのは馬鹿にはできないということだろう。 で、あとの3割の人は助からなかったわけだが、ギリギリの治療を受けた末にダメになったものだから、その臓器は移植用にはもはや使えない状態になっている、ということらしい。 さて、ではドナー臓器を提供したい医師はどうするか。ドナー臓器が使いものになるうちに摘出するしかない。つまり救命治療はそこそこでやめると。 では泣き叫ぶ家族はどうするか。騙すしかない。それはいとも簡単、「全力を尽くしましたが残念ながら」と言えばおしまいだ。現に、3例目となった古川市民病院の事例(6月13日)では、脳内出血しているのに抗生物質等の投与だけで、脳の治療は9時間も放置されたのだが(週刊誌で「野ざらしの9時間」と報道された)、病院側は「救命に全力を尽くす」と言い、家族は「信用するしかありません」と語っている。 そして、阪大の杉本侃教授が開発した「臓器保存術」(抗利尿ホルモン・大量の輸液・少量の昇圧剤、の3点セット)をやる。これは臓器をみずみずしく保つための処置だが、これをすると脳は逆に水ぶくれとなって崩壊する。2例目の慶大(5月12日)、4例目の千里救命救急センター(6月24日)ともにこの臓器保存術を、脳死判定のずっと前からやっていた。そして脳を完全に崩壊させてから正式な脳死判定をする。そしたら「脳死」という結果が出る。 結局、「脳死」臓器移植が成立するためには、そういうからくりが必要になってくる。 「あらゆる適切な治療」が謳われているけど、実は臓器提供と救命治療は両立しない。だから「脳死になったら」じゃなくて、「助かる可能性があっても治療を途中でやめて」というわけ。こういうことを新聞が書かないから(医療報道では最大のタブーになっている。某筋の情報によると、某新聞では記者が書いてもデスクが採用しないとのこと)、みなさんご存じないのです。 こういうことを書いていると、一般の人は「でも、なぜそこまでして医師らは……?」との疑問を持つだろう。僕としてもそれを臓器提供した救急医らに直接聞いたわけではないが、その疑問を解くヒントをいくつか提示しておきたい。 まず、救急医療は日本の医学界では最も日陰の分野であることがその背景にある。 日本の医療は大学の医局講座制にもとづいて細かく専門分化され、プライマリーケアや救急医療など何科でもみるジェネラリストは評価されにくい。この点が海外との大きな違いのようだ。そのため救急専門医を養成するシステムも不十分で、その結果、救命救急センターの質のバラツキが存在する。 脳低体温療法など最新の救命治療をきっちりやろうと思うと相当の設備やスタッフ教育が必要になってくるが、それはパッとしない救命救急センターにとっては負担だろう。某筋の情報によると、たとえば1例目の高知赤十字病院については、「救命救急センターとしてのレベルが低い。医大に運んでいれば助かったのでは」といったことが現地でささやかれているという。 ちなみに高知の病院関係者によると、今回の事件の主治医である高知赤十字の西山救急部長は、高知医大が新設された時の第1期生だそうで、この事件が起きたとき高知医大では「よくぞわが1期生がやってくれた!」と大騒ぎだったらしい。 医師は一般に学閥や学会の狭い世界でお互いを「先生」と呼び合い、名誉・名声を競う体質がある。地味な日陰の救急医療の、さらにパッとしない救命センター。そこで日本で最初の「脳死」臓器提供が行われ、歴史に名を残す。医師らの反救命救急行為の原動力は、そのあたりに潜んでいる可能性もあると僕は見ている。 最初の項が異様に長くなってしまった。あと2つは簡単にいきます。 誤解2 臓器提供は本人の自己決定、という言説 高知赤十字病院の事例では、新聞の1面トップに「家族の選択」との見出しが躍った。どこが「本人の自己決定」なんだろう。それに、来年の臓器移植法改定に向けて、ドナーカードがなくても「家族の承諾」だけで臓器摘出できるようにしよう、との線で話が進められている。結局、流行の「自己決定」という言葉が、脳死移植の既成事実づくりに利用されただけだったようだ。 そもそもその前に、前段で述べた「救命治療をちゃんとするか、それともドナーにまわすか」という医師の決定があるのが現実だ。 正しい情報・知識なくして自己決定なし。 誤解3 「脳死」臓器移植は医療問題、とのとらえられ方 最初の項で「家族は奇跡を祈る」と書いたけど、実のところそうも言えないという悲しい現実は、三面記事やワイドショーでご存じの通り。介護苦・借金苦、あるいは感情のもつれから起こる無理心中や殺人、幼児虐待、親殺し子殺し、妻殺し夫殺し、姑殺し舅殺しエトセトラエトセトラは世のならい。何年か前、死んだ息子の腎臓を提供すると申し出た父親が、臓器提供でお金がもらえないと聞いて提供を撤回したというニュースもあった。海外では臓器売買や、それを目的とした児童誘拐が起きている。アメリカでは「ドナー不足解消のためにハイウェイの制限速度を上げろ」との話もあるとか。 そこまでいかなくても、DVや不倫で関係のギクシャクした夫婦、不登校や非行でギクシャクした親子、遺産相続などでギクシャクした兄弟親戚は、見回せば周囲に1人や2人は見つかるご時勢だ。「かわいそうだが、このさい死んでくれたら好都合」な関係はいくらでもある。ついでに臓器提供すりゃ美談として誰も悪く言わない。 「誤解1」で述べたような救急医らの反救命救急行為も、臓器提供という「旬」の医療に参画して名を売りたい、目立ちたいという欲望がなせる、いかにも人間くさい所業ともいえる。 つまりは、今後そういったところから臓器提供が行われていく可能性も高いわけで、これは医療問題の枠組みで考えているだけではいけないはずだ。 以上、3点を指摘したが、ここから僕は、「脳死」臓器移植は医療問題というよりも、家族問題や社会問題としての意味あいのほうがはるかに大きい、と考えている。今後はそういう方面からの議論がもっとなされるべきだろう。 さて、そのほかにも「移植で助かる」は本当か、など、「脳死臓器移植」には誤解や問題が山ほどある。それらが知られないままにドナーカードが街のそここに置かれている現状は許しがたい。9月末に、それらをわかりやすくコンパクトにまとめたムック本『「脳死」ドナーカード持つべきか持たざるべきか』(いのちジャーナル別冊MOOK1、近藤誠他、さいろ社刊、本体1000円)を出版するので、ぜひ買って読んでいただきたい。 |
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