webいのジャホーム

看護婦と「脳死移植」の
アブナイ関係


松本康治

『ナースプラスワン』(1993年)より


▼看護婦は発狂しないのか?

 ふと「看護婦たちは発狂しないのだろうか」という疑問を持った。

 たとえば、2人の重症患者が救急車で運ばれてきたとする。
 1人は、一歩まちがえば「脳死」になるかもしれない状態の患者。もう1人は、数時間前に主治医が「脳死」と判断した患者。ともに人工呼吸器を装着され、意識もない。
 まだ「脳死」と判断されていない患者には、懸命の看護が行なわれるだろう。泣き叫ぶ家族の祈りになんとか応えるべく、痰を吸引し、体位を変換し、ささいなバイタルサインの変化も逃すまいと真剣にチェックし、そのつど「○○さん!」と何度も呼びかける。
 一方、その隣の「脳死」と判断された患者はすぐさま「臓器保存技術」(後述)を施され、すでに「移植用ドナー臓器の保存死体」として扱われている。看護婦としては、「死体」なのだから別に褥創をつくったってかまわないし、ましてや声かけなんてする必要もない。吸引を少々失敗して気道を痛めたって、どうってことない。

 しかしこの両者は、見た目にはまったく同じ。からだはあたたかく、汗もかけば小便もする。
 唯一の違いは、主治医が「脳死」と判断したか否かだけだ。

 救命救急の現場で働く看護婦の多くは、20才代の若者だ。感受性豊かな年代の彼女たちが、この同じような状態にある両者のベッドを行き来して、頭の中で「こっちは生体、こっちは死体」と自分に言い聞かせながら、“懸命の看護”と“死体管理”を使い分けねばならない。
 ……普通の人間的神経の持ち主なら、発狂するのに3日とかからないのではないか。

 さっそく、ある小児病院に勤める看護婦にこの疑問をぶつけてみた。するとこんな答えが返ってきた。

「……実際にはそんな看護者としての感性で仕事をしてるんじゃなくて、指示だからやる、っていうだけの人が多いから、残念ながらその心配はあまりいらない」


▼「脳死」と「脳死移植」の違い

 さて、別の看護婦に聞くところによると、看護婦の中には「脳死」を人の死とすることに賛成の人がけっこう多いそうだ。ちょっと驚きつつもう少し話を聞くと、彼女らが「賛成」に至る思考経路はこういうものらしい。

「終末期の患者に対して、現場では機械的な延命処置が施されている」
 ↓
「やみくもな延命をいつまでも続けていて、いいのか」
 ↓
「脳死といわれる状態になっても、心臓が止まるまで延命が続けられている」
 ↓
「むごい延命を続けるより、安らかに死なせてあげるほうがいいのではないか」
 ↓
「脳死を人の死とすることに賛成」

 場合によっては、そこからさらに、

「マスコミでは、移植を受ければ助かる人の姿が報道されている」
 ↓
「いたずらに脳死の患者の命を引き延ばすよりも、そういう人たちを助けるべきではないか」
 ↓
「脳死からの移植賛成」

 と進む人もいるらしい。
 これこそ、「脳死」からの臓器移植(以後「脳死移植」)を推進する一部の医師たちの“論理のゴマカシ”の術中にはまった典型的な思考経路といえる。
 一般市民としては、推進派医師に思想をゆがめられた看護婦たちにこのまま「脳死」状態の患者の看護を続けさせるのはちょっとコワイので、ここで彼女たちの混乱を解いておきたい。

 まず前半の、やみくもな延命に対する看護婦たちの疑問は十分理解できる。僕自身もこの問題に対する憤りを感じており、『季刊メディカル・トリートメント』でも過去2回にわたって特集を組んできた。
 
 しかしここで勘違いしてはいけないのは、延命処置をめぐる問題は、「こうなったらこの処置、この時はこの処置」とベルトコンベヤー式にどんどん延命器具を装着していく医療者と、苦しむ患者と、ろくな説明も受けられずにオロオロする患者家族との無機的な「関係」が問題なのであって、決して「脳死は人の死か、否か」などという問題ではないということだ。

 延命問題の解決の糸口は、徳永進氏の言葉を借りると「医療器具の前で医療者が優位な位置を占め、指令するという態度をとらず、まわりに集まった人たちと考え合うということ」(『季刊メディカル・トリートメント第8号』より)しかない。
 つまり現在の医療現場がそういう状況にない、ということこそ問題の根本だ。

 もしも患者を中心に家族や医療従事者たちが「患者の残された生命そのものにとって最善の援助」について考え合い、学び合うようなかたちで終末期医療が運営されたなら、たとえば「脳死」でなくても積極的な治療を止めることもあるかもしれないし、逆に「脳死」であっても家族の願いで最後まで治療を続けることもあるかもしれない。医学的にどうだとか倫理的にこうだとかいう、杓子定規な指標のみに判断をゆだねてしまうことなく、一人ひとりに応じた自然ななりゆきが得られるだろう。

 一方「脳死=人の死」とする考え方は、家族や医療従事者の気持ちとは無関係に「医者の判断ではこれは死体だ」と一方的に通告するものだ。患者や家族の願いが汲みいれられるのではなく医師たちのリクツだけで切り捨てられるわけだから、より大きなしこりが残るだろう。

 さらにこの「脳死」と臓器移植を結びつけようとする「脳死移植」推進医たちは、終末期を向かえた患者の個別で繊細な“残された生”について、別の人(移植を待つ人)とその“生命の価値”を比較し、「愛」とか「善意」などという言葉を巧みに使って、治療放棄と臓器提供を「脳死」患者の家族に迫っている。しかもそのやり口は、あとで述べるようにゴマカシとデタラメで覆いつくされた、危険きわまりないシロモノだ。

 このように、「患者の残された生命そのものにとって最善の援助」についてみんなで考え合うことと、「誰かのために死んでもらう」こととは正反対の概念だ。
 「脳死」患者を前にした看護婦は、「この患者の生命は、別の患者の生命より“価値が低い”」などという蒙にとらわれることなく、家族が心おきなく看取れる環境づくりに力を発揮してほしいのだが……。


▼かくも恐ろしき「阪大事件」

 とにかくマスコミで流れる「脳死移植」関連のニュースといえば、移植を待つ患者(レシピエント)のことばかり。アメリカへ移植を受けに行ったとかいうニュースは、その患者の人物像から何から微に入り細に入り報道される。
 その一方で、ドナーとなる「脳死」患者のことはほとんど報道されない。

 日本移植学会の資料によると、1980〜85年の5年間で行なわれた腎移植は314例で、そのうち3割にあたる96例が「脳死」患者からの臓器摘出とされている。
 そして、これら「脳死移植」ではどんな患者が、どんなふうに臓器を摘出されているのか、誰がどのように提供を承諾したのかは、これまですべて密室で処理され、まったく公にされてこなかった。

 ところがだ。今から2年半前の夏の夜、帰宅途中に駅で顔面を殴られて阪大病院へ運ばれた40歳の会社員がいた。
 彼も「脳死」と判断されて腎臓を摘出されたのだが、たまたま暴行事件の被害者だったために刑事裁判が行なわれ、主治医ら阪大病院の医師たちが証人として法廷に立つことになった。

 彼らの証言によって、ドナーにされた「脳死」患者の扱いの実態が初めて公の場で明らかにされたわけだが、その実態たるや、まともな一般常識的感覚からすると、それこそ脳ミソぶっ飛びモノだ。
 裁判を傍聴した人たちが「ええーっ!」とびっくりするだけで終わらせるにはあまりに重大な内容であり、この事実を1人でも多くの人に知ってもらいたいという思いから、さらに取材を重ねて、昨年末に『四つの死亡時刻――阪大病院「脳死」移植殺人事件の真相』(季刊メディカル・トリートメント編集部編、さいろ社刊)として発行した。

 この「阪大事件」のおそるべき事実と問題点を、その本では「13のキーワード」にまとめた。くわしくはその本を読んでいただきたいが、中でも次の3点は問題が大きい。

 (1)患者の家族に内緒で脳死判定終了の4日前から脳への治療を中止し、それと同時に、阪大病院・特殊救急部の杉本侃教授が開発した「臓器保存技術」(くわしくは前掲『四つの死亡時刻』を参照)を実施した。これを実施されると、臓器は新鮮なまま長時間保たれるが、そのかわりに脳はますます破壊される。これを「脳死」が確定する四日前から、やはり家族に内緒でやっている。

 (2)その間、患者の妻は治療の打ち切りと臓器提供への合意を繰り返し説得され続けた。しかも最後には「(このまま治療を続けると)かなりの費用がかかる」と主治医に脅されている(実際は、医療費は駅で殴った加害者の負担であり、患者の家族には無関係)。

 (3)犯罪などによる変死体からの臓器摘出を禁じた「角膜及び腎臓の移植に関する法律」を無視し、ついでにこの法律を遵守すると自ら定めた阪大倫理委員会の最終報告も無視して、強引に臓器を摘出した。

 ……これらの事実が進められていく過程で、阪大の医師たちはそのつど勝手な死亡時刻を主張した。現在この被害者には四つもの死亡時刻がはりつけられている。


▼つくられる「脳死」患者

 さて、ここに挙げた3点の中でも、最も重要なのは(1)の「臓器保存技術の開始時期」だろう。
 なぜならこの技術は、これまで「患者が絶対に生き返らないとする点をどこにおくか」について議論されてきた「脳死判定基準」そのものを、まったく無意味なものにしてしまったからだ。
 実際、患者に脳死判定が行なわれ、家族が臓器提供を了承したのは、4日間たっぷりと脳を破壊するこの技術を施されたあとだった。

 のちにこの臓器保存技術(裁判で主治医は「首から下の治療」と表現)のことを聞いた患者の妻は、こう語っている。

「びっくりしました。なにが首から下の治療なんですか。首から下は悪いところなんてなかったんですから。脳死判定の結果が出るまでは、脳の治療が行なわれていると信じてました。まさかそんな治療がされていたとは……」

 「脳死移植」が社会的に認められておらず、慎重派・反対派が目を光らせている状況の中ですら阪大事件のようなことが堂々と行なわれているのだから、ゴーサインが出てしまえば言わずもがなだ。
 ドナーの圧倒的不足という現実を受けて、脳死判定などとは無関係に医師が勝手に「脳死」と判断した時刻がその人の死亡時刻となり、脳を破壊する「臓器保存技術」が施されて正真正銘の「脳死」がつくられる。かくして、医師による恣意的な生命操作が当たり前になるだろう。

 それでなくとも「脳死移植」推進論者の言うことにはマユツバものが多い。『四つの死亡時刻』ではその論理のゴマカシを誰にでもわかりやすく説明してあるが、たとえば現在「脳死」とされている患者も、実は本当に脳が「死んでいる」かどうかなどわからない等々……といったことは、他の書物でも指摘されているのでここでは繰り返さない。
 肝に命じておいていただきたいのは、「脳死」はこれまで「専門家」による論理のゴマカシとウソによって、「わかっていないことまであたかも既知のことであるかのように誤って思い込まされてきた」(脳外科医・近藤孝氏)ということだ。


▼看護婦の感性で発言してほしい

 ところで、「脳死移植」に関する事件や議論の中で、看護婦の影は極めて薄い。
 阪大事件でも、現場には当然看護婦たちがいたはずだ。
 しかし、公に明らかにされた事実にも、僕が取材して得た情報の中にも、みごとなくらい看護婦の姿はない。もちろん阪大の倫理委員会にも看護婦の姿はない。看護婦は推進派医師が決めたことに黙って従うのが当然として、完全にカヤの外に置かれているのだろう。
 現在の「脳死移植」は、このように推進派医師だけで既成事実を積み重ねていくというかたちをとっている。

 ただし、阪大事件の唯一の救いは、阪大の中にこの事件の真相究明を訴えている看護婦たちがいることだ。これだけ問題のある事件でありながら阪大病院の医師たちが全員ダンマリを決め込んでいる(=自浄能力ゼロ)ことに比べて、「さすがは看護婦! 医者の世界ほどは腐ってないな」と、わずかながら安心させられる。

 もっとも、冒頭に出てきた小児病院の看護婦は、こんな話もしてくれた。

「重症の子どもを何日も必死で看護していたんですが、結局その甲斐なく亡くなってしまいました。そしたらその時、それまで尊敬してた先輩看護婦が小声で『でも(私たち看護婦は)ラクになったね』って言ったんです。もう、ものすごいショックでした……」

 多忙を極める看護の現場では、看護婦の熱意はこうしたブラックジョークと紙一重のところにさらされている。
 とすると、「脳死が人の死なら、看護婦はラクになる」といった悪魔のささやきが、仕事に疲れた彼女たちの心に忍び込んでいないとも限らない。
 それが事実なら医療現場も世紀末だが、そうならないためにも看護婦の労働環境の改善は急務だ。

 いずれにせよ、“医師の指示だから”と看護婦が医師の暴走に無批判に迎合する時代は、もう終わりにしてほしい。看護婦はあくまでも看護の論理で主張すべきを主張し、目の前にいる自分の患者がたとえ死にかけだろうがどうだろうが、彼そのものに対する“最善の援助”を考え抜いてほしい。

 人間社会が理性を完全に失ってしまいさえしなければ、近い将来、かつてのロボトミー治療と同様に、「脳死移植」を振り返って「昔はよくもあんなえげつないことやってたなあ」と語られる時代が来るに違いない。
 その頃になって、「脳死移植」時代の看護婦たちの行動はどう評価されるだろうか。
webいのジャホーム