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(毎日新聞1992.12.17より) |
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逆の価値観によって操られているのでは 今の医療には、医療者と患者の「対話」がたりない、とよく言われる。患者側としては、医療ミスや薬の副作用などのウワサも聞くし、信頼のおける相手でなければ体をひらくことはできない、でも3分診療では言いたいことはろくに言えず、検査数値だけを早口で説明されたところで、不安は消えない。“ぶっちゃけた話、ホントのところどうなんですか、たとえばぼくが先生の息子だとしたらどうしますか”と聞きたいところだが、「先生」相手にたった3分でそこまでの関係はつくれない。 そこで情報不足を補うために書店へ行くが、ここでも一方通行的に医学知識を提供する本ばかり。一番聞きたい“ぶっちゃけた話”を、同じ土俵でハラを割って対話できる場は皆無といっていい。その間、医療従事者たちはというと、一般人がめくったって全然理解できず、こっちの気持を代弁してくれているはずもない「専門書」ばかり読んでいる。 ……という現状を受けて、僕は6年前に『季刊メディカル・トリートメント』という小さな雑誌をつくり始めた。 この雑誌では特に看護婦を重視して(なぜなら彼女らは医者と患者のやりとりを一番近くで見ているからだ)、しつこくしつこく彼女らに“ぶっちゃけた話”を聞き、対話を続けてきた。当時はまだ看護婦不足が騒がれていなかったせいもあるが、彼女たちの語る医療界のねじまがり構造に僕は度肝を抜かれっ放しだった。 そもそも医療とは「病に苦しむ人間を援助するもの」であってほしいと僕は思っている。そうすると、病者に寄り添う看病(ひいては看護)こそ医療の原点であり本質ということになる。「そんなもん当たり前」やと一般市民は思うかもしれない。ところが今の医療のありようを見ると、どうもそれとは逆の価値観によって僕たちは操られているのではないか、という疑いが起きてくる。 たとえば、かつて「医療とは医学の社会的適応である」と公言した日本医師会の会長がいたが、この言葉は医療の現状をうまく表している。つまり、病者への援助(医療)の一部として医学があるのではなく、医学の仮説を世間の人間たちに施すことこそ医療である、ということだ。 だから、看護なんて医療の本質どころかフロクでしかない。これは僕に言わせると「本末転倒」であり、昨今話題の看護婦不足も、この論理にイヤ気がさした看護婦たちが医者の牙城である病院を見放しつつある、という面もあるだろう。 この本末転倒医療の象徴的存在が「脳死」患者からの臓器移植だ。 推進医たちはこれを「社会に適応」させるため、「病者を援助する」どころか「こっちの判断ではこれは死体だ」と患者家族を説得してきた。 日本移植学会の資料によると、1980〜85年の5年間に行われた314例の腎臓移植のうち、すでに約3割の腎臓がこの論法で「脳死」患者から摘出されたという。 2年前、帰宅途中で駅で殴られて阪大病院に運ばれた40才の会社員にも、この手口が使われた。裁判の法廷で阪大病院の医師たちが明らかにした事実は、一般市民の常識からするとそれこそ脳ミソぶっ飛びモノだ。 患者の家族に黙って脳死判定終了の4日前から脳への治療を打ち切り、脳死判定後の治療について「かなりの費用がかかる」と患者の妻に治療放棄を迫りながら、移植用臓器の保存技術(抗利尿ホルモン等の投与。これによって臓器はみずみずしく保たれるが、逆に脳の崩壊は進む)を内緒で行い続け、法廷やマスコミでは「臓器提供は家族の申し出」(妻は「それは絶対にない、思いもつかないこと」と反論)と証言する、等々。脳死判定は儀式に過ぎない、とも発言している。 こんな行為にも、阪大の他の医者たちは知らんぷりのようだ。もはや医師社会は自浄能力ゼロであるらしい。唯一の救いは、真相究明を訴えている看護婦もいることだけだ。 この事件の顛末と、「脳死」移植のウソを誰にでもわかるようまとめて、『四つの死亡時刻ー阪大病院「脳死」移植殺人事件の真相』(季刊メディカル・トリートメント編集部編、さいろ社)として先月出版した。すべての人にこの事実を知ってもらいたい。 |
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