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| もう何年も前になるが、松山から広島の呉へと瀬戸内海を渡ったときのこと。 船の右舷でボンヤリ海風に吹かれていた俺の目に、こんな風景が飛び込んできた。   真ん中にあるのは、北条沖に浮かぶ小島「鹿島」だ。 その後ろに、浮世絵の背景でも描いたかのように、波の形をした二つの山がある。二つとも同じように右にたなびいている感じがおもしろい。見ているこっちの首も右に傾いでしまいそう。 あとで地図で確認すると、右の高いほうが恵良山、左の低いほうが腰折山であることが判明した。    (左)このあたり (右)地形図で見ると 高いほうの恵良山を国土地理院の地形図(右上)で見たら、こんなギョロ目みたいなことになっている。三角点の右側で等高線が非常に混み合っているのは、急傾斜の断崖であることを意味する。それに対して左側は緩傾斜で、神社もあるようだ。 これを実際に見たら、あんなふうに右にたなびいている形になるっちゅーわけね。腰折山もこれと似たような地形になっている。 以来ずっと登ってみたいと思っていたのを、ついに実行する日がやってきた。  伊予北条駅から街を少し散策してから右側の赤線でまず恵良山、次に腰折山に登った この日はピシッと寒かった。 松山から23分。伊予北条で列車を降りると、駅の高架橋から目指す二つの山がよく見える。 麓までけっこう距離があるが、バスはあるのかないのかようわからんので、歩くことにした。    (左)駅の高架橋から (右)田園地帯を東へ    (左)二つの山の中間を北上 (右)山裾の上難波集落を抜け、恵良山に照準を合わせて柑橘農道を登る 恵良山の麓の集落を抜けて右上写真の柑橘畑まで、駅から約50分かかった。 ちょうど柑橘の収穫期らしく、あちこちで摘果作業が行なわれている。おじさんに「これは何のミカンですか?」と尋ねたら、「伊予柑じゃ」と教えてくれた。これでも今年は不作とのこと。 登っていくと道が二手に分かれた。左は尾根筋の樹林帯、右は伊予柑畑の山腹を恵良山に向かっている。伊予柑の中を歩くほうが楽しそうだったので右へとったが、しばらく進んだところで収穫作業中のおじさんに聞くと、この道は行き止まりで、恵良山へはさっきの左の尾根道を登るのだという。    (左)分岐の右側、谷を埋める広大な伊予柑畑 (右)収穫された伊予柑  しっかりとした大粒 分岐に戻って、尾根筋の森の中につけられた簡易舗装道路を20分ほど登っていくと、ふいにこんな場所に出た。    (左)石段と灯篭 (右)なんとこの急な山の頂上に城があったんだと! 右上写真の立て看板に描かれている見取り図は、東の急斜面が下になっている。戦国時代の海賊大名・河野氏の居城だったようだ。 この石段を上がったところにお堂でもあるのかなと思ったが小広場のみで、奥に荒れた石段が続いている。それをさらに登ると細い山道となり、落ち葉を踏みながら照葉樹林の中をジグザグに登ってゆく。 しばらく登ると、城砦のものか石垣のようなのも現れる。    (左)この石段を登るとつづら折れの山道になる (右)石垣のような部分 城の立て看板から15分ほどで、パッと見晴らしのよい場所に出た。強い西風が吹き渡る澄んだ空気の中、北条市街と伊予灘が一望できる。 その背後に広場があり、奥に神楽殿のような建物があった。どうやらここに恵良山城があったのだろう。    (左)昨夜の雪がうっすら残っている (右)地形図にあった鳥居 建物の右手に古びた木の鳥居があり、それをくぐると岩場が現れる。ルートらしきものが岩の左右に分かれるので、右へ行くと鎖場があった。その上に建物が見える。あれが神社なのだろう。 鎖場を登ると、お社は崖っぷちキワキワのところに建っていた。背後はすぐ山頂部の岩峰が密着しているため、この社殿の写真を撮ることは困難だ。 だがその脇からは、北条から松山方面が一望のもとだ。    (左)鎖場 (右)社殿からの眺望 お社の左から裏手にまわると小さな石の祠があった。ここは冷たい風をしのぐことができる。    (左)社殿の裏手の祠 (右)このかぶりものは役行者だな 祠の北側はやや広くなっていて、三角点もそこにある。この広場が城の天守的な部分だったのだろうか。広場の端からはしまなみ海道の橋の一部や、瀬戸内海を挟んで広島県本土が見えている。 さらに左へ回り込むと、最高点にケルンが積んであった。そこからは西に忽那諸島がよく見える。瀬戸内の美しい島々から海風がここまで上がってきて、俺の顔を刺すように強く吹き付けている。    (左)山頂ケルンから (右)昨夜降ったヒョウが氷砂糖のように冷凍保存されていた そこから社殿前に直接出ることはできないが、山頂部はほぼ一回りすることができ、360度の景観が楽しめる。 それとともに瞠目させられるのは、この山頂周辺はイブキビャクシンの群落になっていて、その巨木が恐ろしいほどの生命力を見せつけていることだ。    (左)イブキビャクシン巨木の根部 (右)西からの強風によって真横になりながらも生きている 上の写真のイブキビャクシンは幹回り3mは超えていたように思う。 山頂部では圧倒的に西からの海風が強い。そのため植物たちは東へと傾いでいる。 よく考えたら、この山自体が東へと傾いでいるわけだが、もしかしてこの西風のせいなのだろうかとさえ思わされる。 それにしても、寒くて長くいられない。祠の陰でおやつを食べて水を飲み、早々に来た道を下りた。下りはあっという間だった。  伊予柑畑から振り返る さて次はもう一つ、小さいほうの腰折山にも登っておこうかな。 恵良山から腰折山へ直接縦走する道はないようだ。はじめはヤブ漕ぎで行こうかとも考えたが、周囲の柑橘畑っぷりを見て、果樹園を踏み荒す可能性もありそうなのでやめといた。 いったん麓の上難波集落を下り、自販機のホットコーヒーで一息いれる。10分ほど西の下難波集落へ向かい、集落手前を北上して大きな寺の手前を左へ逸れて、腰折山へ。    (左)ため池のほとりを歩いていった (右)腰折山登山口にある立札 腰折山はその名の通り、腰の曲がった老人のようにも見える。恵良山と同じく西側が緩斜面、東側が断崖になっていて、登路は南西の緩い尾根伝いについているようだ。 その登山口を目指して最短コースと思われる里道を選んで歩いて行くと、突如として白い立看板が現れた。 地形図を見ると、腰折山の麓には「エヒメアヤメ自生南限地帯」と書かれている。国指定の天然記念物で、絶滅危惧の希少種らしい。それとともに「イヨスミレ」というのも生えていて、こちらは松山市指定の天然記念物。 どちらも日本が大陸と地続きだった頃の遺留種で、たいへん貴重なものらしい。白い立看板はそれを示すものだった。 立看板の横から山道がついている。つまりここが登山口なのだな。 そこを進むとすぐに、樹木のない広大な草地に出た。 じつは前述の2種は腰折山の樹木が繁茂したことで絶滅したと思われていたのが、不慮の山火事で木々が消失した後で、焼け跡から芽吹いているのを再発見された。そのため、樹木が再び繁茂しないよう、このように管理されているということのようだ。 草地はおもに短いササ類で覆われている。その真ん中の尾根筋をジグザグに登ってゆくルートがある。 途中にイヨスミレを保護する柵などがあるが、真冬でササ以外の草はすべて枯れているため、どれがアヤメでスミレなのか全然わからなかった。 草地を登り切ると灌木林に入るが、ここも山火事後に萌芽した若い森で、恵良山の森のような風格はない。山道も丈の高いササが覆いかぶさり気味で、サルトリイバラもあったりする。    (左)希少植物保護の草地 (右)草地の次に現れるササヤブ地帯 立看板のあった登山口から腰折山の背中をなぞること20分ほどで山頂に到着した。 周囲はササヤブに覆われていて展望なし。山頂を示すものも何もないが、明らかにここが最高点だ。少し探ると、南と東を見渡せる場所があった。    (左)腰折山の山頂 (右)ここから見る恵良山はきれいに尖った三角形    (左)高縄山方面 (右)北条市街と鹿島 ここより先は断崖のはず。でも低木が茂っていて、その様子はイマイチわからなかった。 希少植物があることを除けば、腰折山はいまひとつ面白みが薄いかも…。山歩きとしてはバラエティに富んだ恵良山のほうが断然楽しめた。 来た道を下り、田んぼ道を延々歩いて北条の町に戻る。ソバ食って風呂に入って、冷え切った体をホコホコにしてから漁港へ行ってみた。 どこからでも目立つ、2つの波型ツインズ。北条出身の人たちは、帰省時にこのユニークな山コンビが見えた瞬間、「帰ってきたなぁ〜」と感じるのだろう。そんな故郷、ちょっとうらやましい。 (2013.12.28)    (左)コンビニの駐車場から (右)北条漁港から | ||
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