謎の古代遺跡<ちょっとした旅ホーム
頭塔
(ずとう)


古都の片隅にアステカのピラミッド?



2005年4月29日
(奈良市)

南京錠に守られて

 いにしえの奈良の都の街なかに、謎のピラミッドがあるっちゅー話を聞いた。

 奈良とピラミッド、どういう脈絡があるというのか。
 しかもそれは「頭塔」と呼ばれている。「ズトー」。なんとも奇妙な響きだ。
 いずれにせよ相当にイワクありげではないか。見に行かねばならん。

 それは近鉄奈良駅の南東約1.7kmに位置する。
 ならまちの元興寺から、新薬師寺に向かって東へ10分ほど歩く。奈良らしい落ち着いた住宅街の左手(道の北側)に、こんもりと茂った高木の小丘が見えてくる。
 でも手前の建物が邪魔で、正面から丘の姿は見えにくい。丘の登り口らしきところには格子の門があり、南京錠がかかっている。
 頭塔は、このナナメ向かいの仲村表具店さんが管理されている。見学するには、そこで鍵を借りなければならない。

 頭塔の入口

 仲村表具店さんに声をかけると、気さくな感じのおかみさんが出てきて、丘の入口の鍵を開けてくださった。礼を言って、さっそく頭塔へと向かう。
 階段を十数段登ると、木々の繁茂した丘の中腹に出る。丘の周囲には木道が巡らされている。それに沿って右へ回ると、いきなり階段状の土のピラミッドが姿を現す。

 見たことのない形

 おう。なんだこりゃ。
 さらに右(北側)へと回り込むと、ピラミッドは冒頭写真のような石組みとなる。うーむ、まるでマヤかアステカのピラミッドだな。
 一辺32メートルの正方形の石積み基段上に、7段の階段状石積みが四角錘に築かれていて、高さは約10メートル。北面の中央には見学用のウッドデッキも作られている。


謎の仏教遺跡

 頭塔は昭和の末ごろまではこんもりとした森だったが、1986年から12年間にわたって発掘調査され、それと平行して復元整備が行われて、2000年に完成したらしい。
 南半分は木ボーボーのまま残しつつ一部を上写真のように土留め柵とし、北半分は発掘調査で判明した本来の石積みのピラミッドが復元された。

 発掘調査の結果、奇数段には石積みの上に瓦葺の屋根があり、側面に掘り込まれた窪みに28基の石仏が確認されたらしい。石仏は元は44基が配置されていたと思われるとのこと。
 そして驚いたことに、頭塔の内部にもうひとつ当初期の頭塔が隠れていることもわかったという。

 そんなわけで、他に類例のない仏塔であることが明らかになった。
 たしかにこんなの、少なくとも日本の建造物としては他に見たことがない。しかも内部にもうひとつの頭塔が隠れているって・・・怪しいじゃないか。
 まあ、いくらなんでもアステカ文明とのつながりはないだろうが。

 この不思議な塔は、インドネシアのボロブドール遺跡に似ているとも言われている。アンコールワットなどと並んで「3大仏教遺跡」に数えられる世界遺産だ。
 俺は写真で見ただけだが、ボロブドールは1辺115メートル、高さ42メートル(現在は破損して33.5メートル)もあるが、やはり階段状ピラミッドで、正方形5段の上に円形3段が乗っている。方形段の側面の窪みには頭塔と同じく石仏レリーフが設置されているらしい(1400面もあるんだと)。
 ボロブドールが造られたのは8世紀の終わりごろとのこと。頭塔とほぼ同時期だ。その形は立体曼陀羅だと考えられているが、謎の部分が多く、何のための建造物かは諸説入り乱れているようだ。

 で、そんな遠くの遺跡に似たこの「ズトー」っちゅうのんには、いったいどういうイワレがあるのか。

 
発掘された石仏レリーフ


怨念の真相は・・・

 じつは、この塔は首塚であるとの伝説が昔からあるらしい。

 奈良時代、玄ム(げんぼう)という僧がいた。藤原氏との政争に破れ、九州の太宰府に左遷された人物だ。ところが大宰府に赴任するや、かつて玄ムと対立して処刑された藤原広嗣の怨霊が待ち構えており、玄ムはその祟りで翌746年に死んでしまった。
 しかし無念のあまり、玄ムの頭だけが奈良まで飛び帰ってボトリと落ちてきたという。その頭を葬ったのがここであり、そのため頭塔と呼ばれるようになった、というものだ。

 ただし、『東大寺要録』には、767年に良弁(ろうべん)僧正の命令を受けた実忠という坊さんが、新薬師寺西に「土塔」を建てたという記録があるらしい。
 だからそっちが本当で、玄ムの首の話はデマじゃろう、「土塔」がなまって「頭塔」になったのじゃろう、単なる仏舎利塔じゃろう、ということで結論付けられているようだ。

 たしかに、玄ムの頭だけが奈良まで飛んできたなんちゅー話を信じるわけにはいかん。
 だが、そんなコワイ話が生まれたということは、人が玄ムの怨念をものすごく恐れたということを表している。関裕二氏の言葉を借りれば、祟りというものは祟りを恐れる側のやましい心の問題として出現するものだ。

 当時は奈良で天然痘が流行し、朝廷を牛耳った藤原不比等の息子4人も全員それで死んでいる。病気の原因は神の怒りや祟りであると考えられていた時代、玄ムの怨念を鎮めるために、東大寺の坊さんがこの頭塔を建てたということも考えられる。

 ましてや頭塔の首塚伝説には、広嗣に祟り殺された玄ムの祟りという、二重の祟りが込められている。
 この恐怖は当時としてはただごとじゃなかったろう。普通の供養じゃ収まらぬ。そこで、これまでに例のない特別な供養塔が計画されたと考えるのはどうだろう。あかんか?
 それに、玄ムが死んだ年と東大寺の記録との間に約20年のズレがあることと、頭塔の中にもうひとつの頭塔があるっつーことに関連はないんかな。

 では、その玄ムの祟り、無念とはどういうものだったのか。
 奈良時代の政権は、藤原氏vs反藤原氏の熾烈な争いに尽きる。俺のニワカ知識でざっと説明しといてやろう。
 奈良時代のはじめ、「日本史上最大の政治家」とも言われる藤原不比等が藤原独裁政権を樹立したが、その4人の息子全員死亡で藤原氏は一気にしぼむ。それと入れ替わりに反藤原の橘諸兄(たちばなのもろえ)政権が発足した。諸兄は唐への留学から帰りたての玄ムや吉備真備を登用して新知識の導入をはかり、2人はそれに応えて行政改革や新政策を実施した。
 しかし九州に飛ばされた不比等の孫・藤原広嗣は玄ムと吉備真備を「乱人」と罵り、2人を排除するよう聖武天皇に訴えて挙兵した。なのに天皇は知らん顔。橘諸兄は九州に討伐軍を送り、広嗣は交戦ののち捕まって、朝敵として処刑された。
 これで藤原氏も終わりかと思われたが、不比等のもう一人の孫の藤原仲麻呂が一気に巻き返し、今度は玄ムを九州に左遷。さらに広嗣を見殺しにした聖武天皇をも朝廷から引きずりおろして、以後何百年にわたる藤原ジャパンが打ち立てられたと。

 ま、ドロドロですわ。
 玄ムはその狭間に泡と消えたわけだが、じつは、かなりすぐれた人物だったようだ。


玄ムの夢?

 玄ムは716〜734年まで17年間も唐で勉強している。唐では7世紀に三蔵法師がインドからさまざまな仏経資料を持ち帰って、新たな仏教フィーバーが起きていた(そういや三蔵の旅も17年間だ)。
 ボロブドールが同じ8世紀に造られていることを考えると、玄ムが唐でボロブドール的な仏教建築に出会っていた可能性はあるのではないか。東南アジアは現在は小乗仏教だが、ボロブドールを造ったシャイレンド−ラ朝は中国や日本と同じく大乗仏教を奉じていたらしい。

 日本に帰るとき、唐の師匠は「お前は日本に帰ると必ず迫害を受ける」と予言して引き止めたそうな。しかし玄ムは、「せっかく得た知識を祖国で役立てたい」と言って帰国を決めたという。
 帰りの船では暴風雨に遭いながらも、玄ムは九死に一生を得て種子島に漂着。帰国後は朝廷に手厚く迎えられ、天皇の母親の病気を治したりもしている。

 玄ムは唐へ留学する前、岡寺の義淵上人という人物のもとで学んでいた。その弟子の中でも「七上足の一人」とされる優秀な教え子だったらしいが、その「七上足」の中に東大寺の良弁もいる。
 玄ムが死んだ20年後、767年に「土塔を建てよ」と命じた、あの良弁だ。
 つまり玄ムと良弁は同じ釜の飯を食った学友だったのだ。
 ちなみに玄ムが死んだ年、良弁は橘諸兄らとともに東大寺の建設を起工し、初代別当に就任している。

 すまん。長くなった。
 これらから考えると、玄ムの首塚伝説と良弁の土塔とを無関係と考えるのはむしろ不自然ではないか。

 学者は、根拠なく想像でものを言うことはできんだろう。
 仕方がないから、代わりに俺が生半可な知識に基づいて、この謎を解いておこう。

 頭塔には、玄ムの骨が収められていたのではないだろうか。
 骨は、玄ムに付き添って九州へ行った弟子が持ち帰った。そして弟子は玄ムから学んだボロブドール式の仏塔を日本で初めて造り、師匠を弔った。というのも玄ムは生前、唐で知ったボロブドール式の仏塔を日本にも造ってみたいとの夢を弟子に語っていたのだ。
 だが弟子が手探りで造った塔は、はっきり言ってヘタクソなものだった。

 その後、「玄ムの祟り」の噂が奈良の町に広まった。東大寺の良弁もまた、盟友である玄ムを助けることができず逆に自分が出世したこともあって、毎夜夢にうなされていた。
 そこで玄ムの霊を鎮めるため、良弁の命により、頭塔は数年後に一回り大きく立派に造り直された。頭塔の内部にもうひとつ頭塔があるのはそういうわけだ。

 だが藤原氏にとっては、敵である玄ムの塔がすぐれた仏教建築として残るのは困る。そこで頭塔は頂上部分を破壊され、玄ムの骨など証拠の品は持ち去られた。以後、ボロブドール式の仏塔を造ることはタブーとなった。
 発掘調査でも謎がクリアーに解明されず、またこのタイプの塔が他にないのはそのためだ。
 打ち捨てられた頭塔はやがて森となり、長年の間に怨念伝説だけが残ったのであった。

 うむ。我ながら完璧な推理だ。
 でも良い子の皆さんは俺の古代妄想を鵜呑みにしないように。

 おしまい。


左側が復元された頭塔、右の森は整備前のまま残された部分

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