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後半です。前半はこちら | |
赤線は冒頭写真を撮った遠目木山山頂へ至るまでに歩いたルート、青線は下山ルート |
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遠目木山に登る | |
トンボロの南端に近づくと集落が途切れ、役場や警察などの公共施設が立地している。そこをさらに通り過ぎると、広々とした農地が現れた。 本来は水田なのだろうが、あまり本格的に耕作されている感じではない。 (左)トンボロ南端部 (右)振り返る。荒地っぽいのは冬だからかもしれないが やがて道はゆるい上り坂になってくる。トンボロ砂州はもうおしまいで、ここからは上甑島の本体部分だ。 遠目木山の登り口はどこなのだろう。だいぶ上のほうまで林道が続いているが、ぐねぐねカーブしているので近道を探りながら登って行くと、廃道化した旧林道にまぎれこんでしまった。 (左)小さな畑でイモなど (右)旧林道。この先何ヵ所かヤブ化していた ヤブをこいで押し通って行くと、舗装された新しい林道に出た。あとは稜線に見える風車を目指して登り、まもなく脊梁尾根の乗っ越し(牧の辻段)に至った。脇に大きな風車がある。 牧の辻段は広々とした四つ辻になっており、上甑の南岸を見渡せる。 尾根筋につけられた林道を西へ少し進むと林道が二手に分かれ、その先に登山口が見えた。 (左)牧の辻段にある巨大風車 (右)立派な登山口 (左)森の中の急斜面 (右)尾根筋も終始森の中 登山口は立派だが、ここを歩く人は多くはなさそう。「権現→」の標識がたまに現れ、お供えのある石があったりもする。ここは信仰の山のようだ。 やがて嶺の山(383.3m)の山頂に至り、その近くに権現社があった。そこからは上甑の南海岸が見えたが、トンボロ方面は樹木に閉ざされている。 権現からは尾根伝いに遠目木山を目指す。 俺としてはトンボロが見えさえすればべつに遠目木山の山頂まで行かなくてもよかったのだが、尾根筋もすべて樹林に覆われていて、チラとも見えない。 結局、麓から1時間半くらいかかって、遠目木山(423.3m)の山頂に着いた。 そこで初めて、待ってましたの展望が広がった。 (左)ようやく山頂に到着だ (右)見えたーーーー! 拡大、感無量 右側がフェリー港のある東海岸、左側が砂浜と松林の西海岸だ。 バチ状のトンボロ砂州に家々がきれいに密集している。そのすぐ南側のトンボロ付け根部分には農地が広がっている。 高潮などからの安全を考えると、砂州よりもトンボロ付け根のほうが安全だろう。しかし水田には水が必要だ。それがゆえに、山からの水が得られるトンボロ付け根を農地とし、人間は危険な砂州に住む。 高潮の危険よりも、食べ物の確保のほうがより重要だったということだろう。 ここに人間のドラマがあるわけね。 陸繋砂州の形成という自然のドラマが、そこに生きる人間のドラマへとつながってゆくのだね。 どうですか。地理オタクのヨロコビについて多少はご理解いただけたでしょうか。 ところで甑島にはトンボロ以外にもいろいろとおもしろい地形がある。おもしろ地形の殿堂みたいなところなのだ。 (左)たとえばこの潟湖(海鼠池と長目の浜) (右)あるいはこの中甑への極細の連なり (左)そして遠くに下甑 (右)里小学校の卒業記念の石板、全部で15人 卒業記念の石板は、年ごとに設置されている。里小学校の10余人の6年生たちは、それぞれ自分の石を持ってここに登り、トンボロの景観を目に焼き付けて卒業してゆくんだな。 長い人生で辛いとき、悲しいとき、嬉しいときに、このトンボロの風景が彼らの脳裏に蘇ることだろう。そしてこのけなげな地形の記憶に励まされながら、人と人とを結びつける社会のトンボロとなってゆくに違いない。 ああ運命のトンボロっ子。きみたちは「松本トンボロ康治」のように、ミドルネームにトンボロと入れたほうがいい。そうするべきだ。 感動しているうちに、冷たい雨が顔に当たりはじめた。日も暮れかけている。名残惜しいが早く下山しなければ。 頂上の裏側からまわりこむかたちで、北側の急斜面を下る道がある。こっちが本来この山の登山道かもしれない。 (左)20分ほどで林道に出た (右)さっき歩いた、嶺の山から遠目木山への稜線をながめながら東へ 林道に出たところで左(西)へ行けばよかったのに、途中でまっすぐ里へ下る道があるかもと考えて右へ進んでみた。そしたら下りる道はどこにもなく、結局は山腹をぐるっとまわって30分以上かけて風車のある牧の辻段に戻ってきてしまった。 でも途中に一ヵ所だけ切り開かれた場所があり、そこからトンボロが見えた。 (左)道路端にウラジロが生い茂る (中)これはウラジロに非ず (右)ここが切り開かれた場所 (左)切り開きからのトンボロ風景 (右)拡大、真正面だ すでに里集落にチラチラと町あかりが灯りはじめている。 宵闇が迫ってきたので、牧の辻段からはまじめに林道を下った。下写真は俺の高性能カメラがわずかな光をとらえて山の姿を写し出しているが、実際にはほとんど真っ暗だ。 遠目木山を振り返る 見知らぬ山の日暮れにはいつも少し緊張させられる。 |
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武家屋敷 | |
林道を下りきると、トンボロの集落とは雰囲気の違う家並みが現れた。石垣と生垣で整然と配置された端正な住宅地は、一目で武家屋敷跡とわかる。 地図にあった「村」集落だな。 (左)どの家も同じような石垣と生垣 (右)振り返る 横の路地 再開発もされず、けっこうな範囲がそのまま残っている。だが観光化されている気配はまったくない。道行く人もなく、しんと静まりかえっている。 東シナ海にぽつんと浮かぶ辺鄙な島にも、ちゃんとこうして大名や武士団がいたというのがなんとなく不思議に感じられる。甑島は中世までは東国発祥の小川氏が統治し、江戸期は島津家の直轄地だった。 ちなみに甑島の文献上の歴史は古く、奈良時代に遡る。海上交通の時代には海の要所であり、遣唐使や南蛮船の漂着なども記録に残っているらしい。 そして例によって平氏、源氏、楠家などの貴種流離譚がいろいろ残っていて、楠木正行の墓があったりもするっちゅー話。楠木正行の子孫ならわが故郷・寝屋川にもいらっしゃるけどなあ。 トンボロ方面へ歩いて行くと、武家屋敷が途切れるあたりに里村八幡神社があった。里でいちばん大きな神社のようだ。 (左)鳥居の正月飾り (右)廃仏毀釈の影響で首を切られた戸柱神(蛭子) 六地蔵塔 |
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夜のトンボロ | |
神社を過ぎて海沿いを少し歩くと、トンボロの「薗」集落にさしかかる。トンボロ北端の民宿まで、再び集落内部を歩き回った。 見知らぬ村の夜歩きは楽しい。ことに、ここが東シナ海にぽつんと浮かぶ小さな島で、しかも両側を海に挟まれた細長い砂の架け橋の上にあることを考えながらだと、なお楽しい。俺は今、なぜ、こんなところにいるのか。歩くことはそれを考えることでもある。 (左)暗いが、トンボロ内に川がある (右)里中学校 (左)この美容院が激渋 (右)ランプの灯りが最高 この集落は1町の中心だっただけあって、トンボロ内にもスーパーや飲食店、居酒屋などが何軒かある。でも正月2日のため、どこも閉まっていたのが残念だ。 別の季節にまた来て、とれとれ魚を居酒屋でぜひ食ってみたいねぇ。 宿の手前にある古民家 と考えつつ宿に戻ると、なかなか豪勢な料理が待っていた。 甑島の名物は海の幸、なかでもキビナゴだ。俺の目の前にキビナゴの刺身・天ぷら・酢の物その他のキビナゴづくしが並んだが、中でも塩をふっただけの生のキビナゴをコンロで焼きながらビールを飲むのがもうたまらんばい。 (左)キビナゴ (右)自分で焼きながら食べる |
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トンボロの別れ | |
翌朝は9時半の船で甑島をあとにした。今回の旅行は交通不便な場所をつなぎ歩いたので、どうしても早出しないと次の目的地まで行けなくなってしまう。 それでもちょっと早めに宿を出て、船が出るまで朝のトンボロを歩いてみた。 (左・右)夜に見た建物も朝にはすっきり 昨日は気づかなかったマンホールのふた (左・右)南の山からトンボロ内へ流れてくる川。砂州中央付近で90度曲がっている (左)川の曲がり角にある家 (右)メッチャ最高 前日来たときは閑散としていた港だが、この日は人で溢れていた。正月休みに里帰りしていた人たちが、この朝の便でまた本土へ戻って行くのだ。 本土の学校に寄宿しているらしい高校生が乗船口に並び、それを見送りに来た家族らが「あれ持ったか、これも着ていけ・・・」などと盛んに言葉を交し合っている。 俺のようなヨソモノにとっては地の果てのような旅先にすぎないが、ここにいる人たちにとっては文字通りの「里」であり、ある意味、心の世界の中心でもあるだろう。 (左)港を離れる (右)見送りの家族にいつまでも手を振る乗船客たち 上左写真で甑島館の背後に並ぶ山々のうち、左から2番目と3番目が今回登った嶺の山と遠目木山だ。 たった1泊だけだったけど、右から左まで、船から見渡せる範囲は俺もしっかりと歩いたぞ。これで俺の心の中にも、自分と甑島とをつなぐ小さなトンボロができた、かもしれない・・・。 港の別れの風景は、ガラにもなく人をおセンチにするのであった。 さらば甑島 (おしまい。2010.1.25記) |
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