ちょっとした旅ホーム
落日の複雑都市



(福岡県北九州市)
2006.5.28
 北九州は気になる都市だ。

 こんな市は他にない。とにかく気になる。

 日本の喉元といえる関門海峡に面し、古代から大きな社会変化の舞台となってきた濃厚な歴史。
 筑豊の炭田を背後に控え、洞海湾を中心に製鉄などの重工業がひしめき合って、昭和の重厚長大ジャパンを象徴した過去の栄光。
 そして俺が生まれた3ヶ月後の1963年2月、5つの中都市が合併して誕生した北九州市は、世界初の5都市対等合併として国際的にも注目を集め、国連調査団が来たという。
 鉄冷え以降は人口が激しく流出し、最近はついに人口が100万人を割って今なお減少中。人口減社会を先取りする典型的な斜陽都市だ。

 複雑な地形、複雑な歴史、複雑な都市構造、そして大合併のさきがけでありながら没落する都市経営。
 すさまじく魅惑的だ。

 北九州へは過去3度行ったことがある。
 1度目は小学校2年生のとき、父親の九州出張に便乗した家族旅行で立ち寄った。旅館の部屋の窓から見えた若戸大橋の夜景だけをしっかりと覚えている。
 2度目は大学生のとき、自転車で京都から鹿児島まで往復したときに通過した。あのときは関門トンネルを自転車でくぐった。
 3度目は4〜5年前、書店営業で小倉や黒崎をまわったが、仕事のみで何も見ていない。

 この都市をじっくり歩いてみたいと、ずっと思っていた。
 でも最近は見たいものが多すぎて、ゆっくりと街歩きをする余裕がなくなっている。今回は3日間の滞在期間のうち、1日目を北九州の街歩きに当てた。
 門司・小倉・戸畑・若松・八幡の旧5市を全部歩きたいと思っていたが、関門海峡を渡って下関にも行ったため、結局北九州は3カ所にとどまった。
北九州への道
黒崎(八幡西区)---謎の歴史を秘めた街
戸畑(戸畑区)---執念の洞海湾
門司港(門司区)---運命海峡、夜レトロ 06.6.17

北九州への道

 関西から北九州へもっとも安く、楽に行く方法は、名門大洋フェリーの「関門海峡フリープラン」だろう。大阪南港からの夜行フェリー往復代に関門海峡周辺のバス・連絡船1日乗り放題チケットがついて、8800円。
 それに加えて、今回は門司港の1泊3600円の宿に2泊した。つまり船中2泊、現地2泊の4泊5日で、交通費・宿泊費の総額が1万6000円だ。
 ちなみに、新幹線で行く場合、新大阪〜小倉間ののぞみが片道1万4050円。片道で!

 スマヌ。いきなりカネの話ばっかりしやがってこの貧乏人が。でも安くあげれば、そのぶん何度も旅を楽しめるからね。ただしこのフリープランは船では大部屋のザコ寝だ。レディースルームもないから女性の一人旅はやや根性がいるかも。

 大阪南港〜新門司港の名門大洋フェリーは1日2便、夕方5時20分発と夜8時発。
 夕方の第一便に乗れば門司には朝の5時に着く。そして帰りは夜8時に門司を出る第2便。これで現地に丸3日間、目いっぱい滞在しようという貪欲な発想だ。

 船に乗ったら、まず部屋で自分の寝床を確保してから、出航前に船内の展望風呂に入るのがポイント。そのほうがすいてるからね。
 で、風呂上りに船が動き出したら甲板に出て、明石海峡大橋や暮れゆく瀬戸内海を眺めながらビールを飲み、持ち込んだ巻き寿司を食うと。

 夕暮れの明石海峡大橋をくぐる

 あとはもうロビーのソファを占領して寝そべり、テレビを見たり本を読んだりしながら、ひたすら豆をつまみに夜中までビールを飲み続ける。酔っ払ってトロトロになったら部屋に戻って就寝。

 やがて早朝5時前に新門司港到着を知らせる船内放送がある。
 目をこすりながら甲板に出ると、新門司港のすぐ横にこんな山が見えている。おぉ、なかなかに登攀意欲が掻き立てられる美しき鼻筋、次回はこいつに登ってやろうかな。

 帰って調べたら「鳶の巣山」という名だった

 下船したら、無料送迎バスが門司駅もしくは小倉駅まで送ってくれる。
 北九州の中心・小倉駅についたのは6時前だった。6時9分の熊本行き普通列車に乗って、まずは北九州市西端の八幡西区へ向かった。

黒崎(八幡西区)---謎の歴史を秘めた街

 20分たらずで黒崎に着く。ここで下車。
 洞海湾の奥に立地する黒崎は、旧八幡市の中心地。北九州では小倉に次いでにぎやかな街だ。駅の北側は臨海工業地帯だが、南側には扇形にいくつかのアーケード商店街が発達している。
 当たり前だが、日曜日の朝6時半の駅前商店街って・・・深閑としてます。

 
(左)駅前を東西に走る国道3号、かつて自転車で走った   (右)中心的な商店街・カムズ黒崎

 20年前はたしか駅の東にそごうがあったが、今は井筒屋に変わっている。
 最もにぎやかな商店街・カムズ黒崎の西隣、栄町商店街をまっすぐ歩くと、やがてアーケードが切れて、正面に小さな丘と鳥居が現われる。岡田神社だ。

 
(左)岡田神社の拝殿   (右)軒下の梁先が鳳凰になっている

 石段を登ると、こじんまりしたスペースに拝殿・本殿などがまとまっている。小さなフツーの神社だが、じつはここは古代史上の大きな謎を秘めているので来てみたかったのよ。

 というのも古事記や日本書紀によると、宮崎県で育ったイワレヒコ(初代天皇の神武)がヤマトを目指して船出したとき(いわゆる「神武の東征」)、まっすぐ瀬戸内海を東へ向かえばいいものをどういうわけか逆に西へ向かい、関門海峡を通ってわざわざこの地に来たとある。
 その場所っちゅーのが、洞海湾の奥のここ岡田神社か、もしくは隣の遠賀郡芦屋町の岡湊神社のどっちかなんだと。
 それが何を意味してるか、ちょっと俺のウンチクを聞いてくれるか。

 古事記では、イワレヒコはここに1年滞在したとある。そののち再び関門海峡を通ってヤマトへ向かうわけだが、いったい彼はここへ何をしに来たのかという謎だ。
 またその後(かどうかわからんが)、神功皇后が朝鮮半島へ出発するときにも、ここ黒崎を訪れたらしい。このすぐ北の洞海湾には、今も「皇后崎船溜」がある(三菱マテリアル工場の横)。

 ここに何があったのか。ここに誰がいたのよ。

 イワレヒコや神功皇后が実在したかどうかはともかく、黒崎周辺には当時の情勢の鍵を握る重要な人物(集団)がいたに違いない。
 鍵、とはすなわち関門海峡のことじゃないか。なぜならイワレヒコがヤマトに移住したとしても、関門海峡を支配する一族の協力を得られなければ、瀬戸内海の奥にあるヤマトが朝鮮半島の鉄を直接手に入れることはムズカシーだろうからな。
 実際、3世紀ごろまで筑紫勢力(魏志倭人伝に出てくるイト国とかナ国とか)が繁栄したのは、彼らが関門海峡を閉鎖することで大陸との交易を独占できたからではないかと目されている。その中心がヒミコの邪馬台国というわけ。邪馬台国九州説で言えばね。

 関門海峡を通してもらえなかった勢力は、やむなく朝鮮半島→山陰→畿内、という日本海ルートを利用した。そのため、本州の玄関口となった出雲や中継地の吉備もまた栄えたっちゅーことになる。
 ということは、もしや関門を閉鎖したのは出雲だったっちゅー可能性も・・・うむ、ありえるな。

 まあ結局、九州のイワレヒコが遠くヤマトに招かれ王権を譲られるという古代史上もっとも不自然な現象が起きたのは、彼が関門封鎖勢力と話を着けられる人物だったから、かもしれん。あくまで「かも」ね。

 あかん、マニアな世界に踏み込むと止まらなくなるのでこのへんでやめとこ。

 まあ朝っぱらからそのようなことをウダウダ考えつつ境内をしばしウロついたのち、神社の南側から丘を西へ下りると、立派な厚生年金病院の前に出た。
 そこには撥川という小さな川が流れているが、ふと見ると、いわゆる近自然工法で整備されている。護岸は隙間の多い石垣、河床も石積みと土で、ところどころに深い淀みまでわざわざこしらえて魚が住みやすくしてあるぞ。
 かつて高度成長期には、おそらくコンクリ三面張りの無生物水路と化していたことだろう。そこに再びメスを入れて、「人工的に」自然な川に戻そうという試みだ。
 石炭鉄鋼ガッツンガッツンの象徴だったここ北九州で、この「地球にやさしい」先進的な河川整備が行なわれていることにちょっと感じ入るものがあったので記念撮影。

 
(左)撥川、向こうは帆柱山   (右)ランダムに組まれた石の間を水が流れる

 ところで、iタウンページによるとこの近辺に2軒の銭湯があるので、いちおうチェック。
 撥川を挟んで厚生年金病院の向かいには岸の浦湯、周囲の新築マンションラッシュに負けずに庶民的な面持ちでなかなかいい感じ。
 そこから南東に坂を登って徒歩数分の福梅湯、すっきりとかわいらしい銭湯だなと思ったら、玄関に不吉な張り紙が・・・昨年10月いっぱいで閉店したらしい。惜しいなあ。

 
(左)岸の浦湯   (右)廃業した福梅湯

 さてと。八幡に来たからにゃ洞海湾を眺めるべきだろう。ということは高いところに登らにゃならん。
 洞海湾の眺めといえば皿倉山(622.2m)と相場が決まっているが、歩いて登るとそれだけで半日以上つぶれてしまいそうだし、ケーブルもあるけど山頂リフトも合わせて往復1100円か・・・今日は曇り空で視界はイマイチ、ちょっともったいないかも。もっとチャッチャと簡単に登れる山はないかな。

 すぐそこに見えてる山はどやろ。地図によると河頭山、213.1m。道は書かれてないけど、途中まで車道があるみたいやし登れるでしょう。北九州は海と山の距離感が神戸に似ているな。
 というわけで黒崎ゴルフガーデンの前から取り付いたが、すぐに車道は荒れた道になり、しばらく行くと草の茂った山道になった。昨日の雨で草は濡れており、その露でズボンも濡れるし、泥道ですべって仕方ない。周囲は深い森で景色なんか全然見えへんし。
 こらあかんでと思いつつも、少しくらい景色の見えるところはないのかな、もうちょっとだけ・・・といつものクセが出る。
 海の近くで古くから開けたところは、たいてい造船などのために木が切られて貧弱な森になっているものだが、北九州は石炭が豊富だったせいか、けっこう巨木が生えている。植生も南方系で興味深く、景色も見えないのについ森の奥へと進んでしまう。

 
(左)板根の発達した大木、ウラジロガシかな?   (右)さらに登ると大きな岩がゴロゴロしてくる

 つるつるすべる山道を苦労して登るうち、やがて道がなくなって竹林に突き当たった。仕方がない、とりあえず尾根に出て眺望があるかだけ確認しよう、とそのへんの斜面を登って竹林の稜線に出たら、踏み跡があり、そこらじゅうでタケノコを掘った跡がある。
 踏み跡をたどって登ってゆくと、整備された登山道に出た。こんな道があったんかい。でも雨がパラついてきたぞ。

 その道を10分ほど登ると、山頂らしき広場に出た。山頂、とは書いてないが、「雨乞いをした場所」と書いたプレートがあった。
 でも周囲は木が茂り、展望はあまりよくない。木々の隙間からなんとか洞海湾が見えたが、雨が降ってるし、やや高度不足。やっぱり皿倉山に登るべきだったか。

 
(左)山頂はきれいに刈られた草地   (右)ふしぎな岩がある

 
(左)横に細長い洞海湾、その向こうは若松区   (右)皿倉山は高いなあ

 雨が本降りにならないうちにと、早々に戻る。登山道は途中何本かに分かれるが、何の標識もない。そのつど北の方角への道をチョイスしながら降りてゆくが、どうも道が細くなって心もとない。
 でも雨さえなければ手軽にそこそこ楽しめる山だな。何度か行き止まりで戻ったりしつつ、平尾町というところに出た。

 市街地のすぐそばまでクスノキの巨木などが茂る

 期待した展望はイマイチだったわりに時間を食った。体力も消耗したしズボンも汚れたよ。
 でも雨はなんとかやんでよかった。

 駅方面へ戻る途中、黒田湯を発見。かつてこのあたりを支配した黒田藩からとった屋号なのだろうが、この銭湯は渋い! 明日の夜にでも入りに来よう。(で翌日入ったレポートこちら

 
(左)左手の木の茂った建物が黒田湯、右に見えるのが登った河頭山   (右)その近くのさびれた商店街

 そこからいくつかのアーケード商店街をつないで中心街へ戻る。
 黒崎は江戸時代、「長崎街道」の宿場町だった。その街道筋に鄙びた商店街が連なっている。

 カムズ黒崎で、おっ渋い映画館! と思ったら、「デイサービスセンターです。映画館ではありません」と書いてある。映画館だったのを改造したのだろうが、かつての外観をそのまま使い、看板には石原裕次郎や吉永小百合や藤山寛美などのポスターが並べられている。
 これはいいアイデアだ。歳をとったとき近所にこんなデイサービスセンターがあって、毎日いろんな映画を見られたら、絶対通うぞ。楽しいじゃないか。

 素敵なデイサービスセンター

 この向かいに「朝食バイキング」の小さな店があった。そうか、もう4時間近く歩いてるけどまだ午前10時過ぎ、朝食の時間なのか。
 その店で腹いっぱいメシを食べて、とりあえず今回の黒崎歩きはここまで。なんせ街がいっぱいあるから忙しいんだよ。電車に乗って次へ向かった。

戸畑---執念の洞海湾

 普通列車で東へ、駅を3つやり過ごして戸畑で下車。
 今回の旅の目的の一つが、小学生のときに見て強く印象に残っている若戸大橋を再び見るという、がらにもなくおセンチなメンタルのジャーニーたい。

 戸畑は旧5市の真ん中に位置し、八幡と同じく新日鉄の企業城下町。数年前に書店営業で来たと記憶するが、ガラーンとさびれた駅前風景のほかは記憶になし。
 今回来てみたら、南口駅前が再開発されて立派になっている。でも若戸大橋へは北口から出る。昔はこっちが玄関口だったんだろうが、今はすっかり裏口だ。
 北出口を出ると海までまっすぐに道が伸び、正面に真っ赤な大橋が見えている。400mほど歩くと橋のたもとの渡し場に出る。

 
(左)駅を出ると間近に迫る赤い橋   (右)渡船場。対岸は若松

 若戸大橋は洞海湾の入口にかかっており、戸畑と若松を結ぶ。洞海湾の幅はここでは400mたらずで、大橋の長さは680.3m。
 若戸大橋は俺が生まれた1962年に完成した。ちゅーことは俺と同い年だ。日本の独自技術による初めての大きな吊橋で、これがのちに関門大橋→瀬戸大橋→明石海峡大橋へと進化してギネスることになる。
 つまり俺が生まれてからの40年あまりで、日本の吊橋技術はものすごいところまで進歩した。その間、俺は何をやっとったのかということになるわけだが。あはははは〜。

 大橋の下を、緑に彩色された渡船が行ったり来たりしている。それに乗って若松に渡りたい衝動に駆られたが、時間的なことを考えて断念した。ま、次回のお楽しみにおいとこう。

 渡船場から大橋の付け根の高架道路に沿って東の市街地へ。
 JR線路を越える手前にお地蔵さんがあり、数人のおばちゃんらが何かやっている。ふと見ると、地蔵が手に何かを持っている。すげ笠のような持ち方だが妙に小さい・・・げっ、これ胎児だよ!
 思わずそこにいたおばちゃんに、「これ変わってますね」と声をかけると、
 「これは水子地蔵たい」
 と言う。まあそうだろうが、しかしそれにしても妙な持ち方だ。「この水子が目に入らぬか!」じゃないんだから。

 
(左)お顔はやけに美形   (右)せめて胸に抱いてやるとか・・・

 写真左のおばちゃんが、
 「これ持って行きんしゃい。どうせお接待で配るもんじゃからよかよ。これも何かの縁たい」
 と言って、彼女らがそこで小分けしていたスーパーの袋を一つくれた。中にはバナナとリンゴとパンケーキみたいなのがいくつか入っている。
 ありがたく頂戴し、さっそくバナナを食いながら歩く。昼食代が浮いちゃった。

 さて、せっかくだからここでも銭湯つなぎ歩きで町を見よう。iタウンページによると、戸畑にはけっこう銭湯があるようだが。
 まずは市街地と工業地帯の境に近いあたりを東へ2kmほど歩く。こういうところはたいてい道が広く、古い住宅の合間に空き地も多かったりする。街の大雑把な感じがちょっとアメリカンだ。

 どこか大陸的なまちなみ

 
(左)駅北口に近い旭湯   (右)駅の北東1kmにある朝日湯、ちょっとかわってる

 
(左)朝日湯から300mほど東にある中将湯、渋い   (右)工大前駅に近い明松湯、民家的かわいらしさがナイス

 明松湯の周辺は、昔ながらの商店街になっている。ここで南に向かうと国道199号線に出て、正面に九州工大のいかめしい門がある。北九州工業地帯を支えた大学なのだろう。
 工大の西壁に沿ってしばらく南下したのち、西に向きを変えて戸畑駅方面に戻る。1kmほど行くと戸畑区役所がある。ありし日の栄華を感じさせる、レンガ造りのしゃれたレトロ建築だ。

 
(左)九州工大、緑が濃くて校舎は見えず   (右)戸畑区役所

 さらに駅のほうへ大通りを歩いてゆくと、前方から若者の大きな声が聞こえてくる。しかも大勢で何かを歌っている。何事かと思って近寄ると、歩道のあちらこちらに数人ずつの若者たちが固まり、ふんどし一丁で米俵に乗って何かを歌っている。
 こ、これは・・・もしかして本州では20年前に絶滅したと言われる、いわゆるひとつの「バンカラな校風」というやつか・・・!?

 
(左)「忘身」っていうより、目立ちたいだけだろが   (右)10m間隔で陣取っている

 応援歌みたいな勇ましいのを歌っているかと思えば、別のグループは「きみと出〜会ぁった奇跡が〜♪」なんてやっている。赤フンでスピッツ・・・。
 そのへんで見ていたおばさんに「あれは何ですか」と聞くと、
 「工大の行事みたいで、毎年やってますけど、何なんでしょうね。町の祭りとは関係ありません」
 とのことだった。
 よく観察すると、町の人たちの視線がけっこう冷ややかだ。学生たちのズレ切った青春の熱い姿を、町じゅうの人たちが無視している。
 ふと、北九州工業地帯の衰退、という言葉が頭をよぎった。

 工大から駅までの間で、銭湯もう2軒。

 
(左)工大と区役所の中間にある玉の湯   (右)区役所と駅の中間にある昭和湯、タイルが見事

 さてと。けっこう歩き疲れて駅に戻ったが、なんか今朝の河頭山からの眺めにイマイチ満足できなかったためか、洞海湾沿岸を去りがたい。
 せっかくだから駅の西にあるこんもりした丘に登って、洞海湾の俯瞰に再トライしてみるか。さっきは細長い洞海湾を横から見る感じだったが、ここからだと湾の入口から奥に向かって、縦に見えるはずだ。
 ・・・ちくしょう、なんで地理オタクなんかに生まれちまったんだよう。

 マイカル裏の通路から、貨物線に沿ったさびしい道を1.5kmほど歩くと、都島展望公園へ登る階段がある。そこを登ると広いグラウンドがあるが、日曜日だというのに草野球すらやってない。ていうか、この公園自体に人影がまったくないぞ。
 グラウンドの奥に、草の穂がそよぐさわやかな丘があり、その上にかわいい東屋が立っている。あれが展望台だな。

 だ〜れもおらん。俺のための場所

 そこへと登る。
 すると、おぉ、高さは足りないが、期待通りの角度で洞海湾の展望が開けている。


継ぎ目が少しずれてるけど、洞海湾の奥方面の連続写真

 洞海湾拡大、二島を挟んでU字型に伸びる

 グラウンドのすぐ先に新日鉄八幡泊地への水路があり、その先で左右に長く伸びる緑地(かつて島だったらしい)の向こうに、湾の本体が二手に分かれながら奥へと続いている。

 洞海湾は激動の歴史を歩んでいる。
 全長10kmほどの洞海湾は、かつてはきんちゃく袋のような形だった。遠賀川の河口とも細い川でつながっており、玄界灘の荒海や関門海峡の急流を越えてきた船人たちにとってエアポケットのように平和な入り江だった。1〜2mの浅海で、魚の宝庫でもあったらしい。

 ところが1920年代以降は埋め立てられて官営八幡製鉄所や化学工場などが作られ、水路のように細くなってしまった。浚渫で水深は10mに掘り下げられ、岸辺はすべて人工岸壁で固められた。
 さらに工場廃水によってアジア最悪の汚染海域となり、死の海と化す。なにしろ、あまりの汚さに漁獲量がゼロだったおかげで水俣のような悲劇に襲われずにすんだっちゅーからな。
 その後、環境改善のためのさまざまな努力によって水質は改善し、今では魚やクルマエビ、渡り鳥の宝庫に戻っているらしいんだが。

 神様がくれたオアシスのような小さな湾が、人間の欲望によってもみくちゃにされたのち、再び蘇りつつある。すごいドラマだ。

 少し場所を変えると、洞海湾の入口方面がよく見える。

 
(左)洞海湾のボトルネック部分、対岸は若松   (右)そして入口にかかる若戸大橋

 おばちゃんにもらったパンケーキをここで全部食う。
 しばし地図と見比べながら、この湾がきんちゃく袋のようだった頃の姿を頭に思い描きつつ、風景を眺める至福のとき。アホだな地理おたくはあはははは〜。
 でもやっぱり高さが物足りん。次回こそは皿倉山に登って眺めることにしよう。

 登ったのと逆のほうへ下り、駅へと戻る。

 展望公園から下る急坂、戸畑の街を望む

 しかし関西から観光で黒崎や戸畑なんかに来るやつはまずいまい。観光資源がないからね。なのになぜ俺は楽しいのか。きっとアホだからだろうな。

 戸畑で過ごした時間は3時間ほど。
 次はようやく観光地の門司港だ。ここからやっと人並みの旅行ガイドができる・・・かも?

門司港---運命海峡、夜レトロ

 戸畑から東へ。小倉を過ぎると、九州島は関門海峡とすれ違うように北東へ半島を伸ばす。門司区は全域がこの企救(きく)半島に位置している。
 門司駅で、JRの線路は2手に分かれる。
 ひとつは関門トンネルをくぐって本州の下関へとつながる。もうひとつはトンネルをくぐらずに企救半島の先端に向けて北上する、2駅だけの盲腸のような路線だ。その盲腸路線の終点がJR九州の基点、門司港駅だ。

 門司港はこのところ、「レトロ」な観光地としてさかんに売り出している。
 駅についてホームに降りると、やたらと人が多い。さすが観光地、しかも日曜日だし・・・と思ったが、それにしても人が多すぎるぞ。交通整理までやってるし。
 と思ったら、たまたまこの日は「みなと祭り」なるものが開催されていた。

 
(左)門司港駅構内、わざわざ「レトロ」な内装   (右)門司港駅舎、確かに古くて素敵な建物。バックは三角山

 パレードが来るというのでせっかくだから見て行こうかなと思ったが、長いこと道を通せんぼされて待たされて、何が来るのかと思いきや・・・ハーレーオヤジ軍団だと!
 俺もかつては中型に乗っていたしハーレーには少し憧れもあるが、こういうカネに物を言わせてゴテゴテに飾り立てただけの、しかもそれを集団でつるんで見せびらかしたくて仕方がない勘違いジジイどもは大嫌いだ。というか恥ずかしくて見ていられない。

 もうこの瞬間、みなと祭りとはオサラバ決定。交通警官の指示を無視して車道を歩き、うるさい人ごみを抜けて観光地帯から脱出する。

 山側に10分ほど歩いて裏通りに入ったところに、以前友人に聞いて行きたかった銭湯、梅の湯を発見。まったくもって渋いですなあ。営業時間は午後4〜9時ね、その時間に入りに来ようっと。
 (でも翌日8時すぎに来たら閉まっていて、結局今回は入れなかった。定休日だったのかなぁ・・・そうであることを祈る)

 
(左)激渋の梅の湯   (右)植木が最高

 梅の湯はiタウンページには載っていない。が、同ページによるとここから北へ1kmほどの間に2軒の銭湯があるらしいので、いちおうチェック。

 
(左)みどり湯、瀕死の状態っぽいが、やってるのかな?   (右)きく湯は設備が揃ってるもよう

 さて、門司へ来たらば何はともあれ関門海峡を眺めないとな。
 きく湯から北へ坂を登ったところに西光寺という寺があり、その裏山のてっぺんにパゴダが見えている。あれに登ったら関門海峡が一望できそうだ。
 登り口がわからなかったので、そのへんを歩いていたワルっぽいカップルに聞いたら、登り口から途中の分岐点なども丁寧に教えてくれた。たぶん子どもの頃よく登ったんだね。

 
(左)西光寺から見たパゴダ   (右)パゴダへの道

 教えられたとおりに登ってゆく。登るにつれ、みなと祭りのマイクパフォーマンスがこんなところまで聞こえてくる。「関門フォーーーッ!」とか聞こえるが、HGが来ているのか?
 数分の登りで、ビルマ僧院という建物に出た。

 
(左)ふしぎなビルマ文字   (右)かなり苔むしている

 その少し先にパゴダがあった。かなりデカくて立派な建物だ。徳島の眉山にあったパゴダよりゴージャスな感じ。ここには2人のビルマ僧が勤めているらしいけど、入館料がいるので内部見学はパス。
 それに、残念ながらここからは関門海峡は見えないな。
 その北にある国民宿舎めかり山荘を過ぎると、前方に古城山が見える。かつて関門海峡ににらみをきかせる城があったところだから、あそこなら確実に見えるに違いない。さっそく登ろう。

 
(左)平和パゴダ   (右)古城山

 
(左)城壁跡に防空壕か弾薬庫みたいなのが掘られてあった   (右)山頂の城跡

 10分ほどで古城山山頂(175m)に着く。思ったより木々が茂っているが、見えましたよ関門海峡。


毎度ずれまくりの連続写真、左のほうが日本海、向かいは山口県下関市、中央に関門大橋、その右は火の山

 下関の中心部拡大、帆船や海峡ゆめタワーが見える

 曇っていて残念だが、20年ぶりの風景だ。
 狭いところで幅700m。この細いスキマが、日本海と瀬戸内海をつなぐ唯一の通路なのだね。ここを舞台に過去幾多の事件が起こり、物語が生み出されてきたわけか。

 しばらくしみじみと眺めていたが、日曜日だというのにここは人が少ない。先客は犬の散歩オヤジが一人、あとから学生ふうが一人来ただけ。
 もっと近くからも見れたはずだが、大橋近くの展望台へつながる道はないのかな。来た道を下りながら探ると、橋のほうへ下る山道を発見した。

 ほとんど使われていないケハイの道

 坂を下ってゆくと、橋の付け根のすぐ近く、トンネル上の展望公園に出た。ここからは橋はもちろん、門司港の町がよく見える。観光客も20人くらいいた。


左側が門司港、右側が下関

 
(左)日本海方面拡大、S字にくねる向こうから大陸文明がやってきた   (右)関門大橋

 このわずかな海峡を渡ることができずに、平家は滅んだのだね。
 ここでもしばしぼんやりと眺めたのち、車道を歩いて海岸へ下りる。

 ちょうどノーフォーク広場というところへ出た。
 海へ近づくと、すごい流速で日本海から瀬戸内海へと潮が流れ込んでいることがわかる。時速18kmとのことだが、淀川なんかよりずっと速そう。すぐ渡れそうだがじつは厳しい海の難所だ。

 この海峡では1日に4度、潮の流れる方向が逆転する。そんな海峡は世界でも珍しいらしい。
 この流れにさえ乗れば、日本海から瀬戸内への出入りに関しては舟を漕がなくても自動運転でOK。でも逆に海峡に入ってしまうと、前方に敵がいることがわかっても引き返せない。
 まさしく、運命の海峡だ。

 
(左)ノーフォーク広場   (右)そこから見た関門大橋

 瀬戸内海へとザブザブ流れ込む日本海の潮

 ところで、今回利用したフリープランには、フェリーの往復券だけでなく関門海峡周辺のバス・連絡船乗り放題券もついている。もう夕方やけど、使わなきゃソンですがな。
 というわけでバスに乗って門司港へ戻り、そこから関門連絡船に乗って下関に渡った。

 下関ではまた駅周辺の銭湯を見て回ったあげくここに入った。が、風呂に入ったら歩き疲れた足の筋肉の緊張が一気に解けたのか、逆にふくらはぎがダルダルになった。
 そのあと居酒屋に入ってビールを飲み、サワラの刺身などを食ったが、ダルダルはとれず。このままじゃ足がピクピクして寝れないかも・・・との懸念を感じ、飲み屋を出てからもう1軒気になったここにも入り、足をじゅうぶんに温めてマッサージした。

 そのあと再び連絡船で門司港に戻る。

 夜9時。門司港のまちは祭りも終わって、ようやく静かになっていた。宿にチェックインして荷物を置き、すぐに夜の散歩に出る。
 船だまりの向かいにある地ビールレストランに行き、ピザを食いながら地ビールを4杯。気分よく酔っ払ってから店を出て、昼間見れなかった夜のレトロ港町を散歩する。
 夜もなかなかいい雰囲気だ。

 
(左)夜の門司港   (右)「ブルーウイングもじ」という名の、はね橋

 
(左)旧大阪商館   (右)旧門司三井倶楽部

 
(左)旧門司税関   (右)ブルーウイングを渡って、宿へ帰る

 門司港は港周辺のレトロ建築物と関門海峡がウリだが、そこから外れた場所にもしっとりした下町やひなびた市場、小さな盛り場などもあって、けっこう多様な顔を持ついい感じの町だ。またの機会にもっとじっくりと探索してみたいね。梅の湯も気になるし。

 しかしまあ、よく歩いて疲れたよ。でも2軒の銭湯で癒したおかげか足のダルダルも治って、ゆっくり眠れた。そして翌日も、翌々日も、ハードに歩きまくったのであった。

 とりあえず今回の北九州市内散歩はここまで。たった一日のことなのに長くなった。
 次に来たときは、今回歩けなかった小倉や若松その他もぜひ歩きたい。

 おしまい。 (06.6.17)
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