御所ヶ谷<謎の古代遺跡ちょっとした旅ホーム
御所ヶ谷

九州に存在する《京都御所》



2006年5月30日
(福岡県行橋市)

 吉備の鬼ノ城でアレコレと考えさせられた俺だが、じつのところ、九州北部にはそれと同じような謎の古代朝鮮式山城が9ヵ所もあるっちゅー事実を知ってしまった。ははは。
 しかしまてよ・・・あんなのがあっちこっちにあるって、どういうことよ?

 それらは「神籠石(こうごいし)」と呼ばれている。
 「霊域を区切る結界」として明治期に学会で紹介されて以後、これらの列石は神籠石と呼ばれるようになったが、のちに古代朝鮮式山城であることが判明したというものだ。

 鬼ノ城と同じく、7世紀に天智天皇が唐・新羅軍の侵攻に備えて造ったものだとの説が有力らしい。でも俺は鬼ノ城で、その説をウノミにするわけにはいかなくなった。

 では九州のそれらはどうなのだろう。
 神籠石のゴツイのが福岡県行橋市にあるというので、北九州に来たついでに行ってみた。

 赤いピンが御所ヶ谷


★京都御所を歩く

 JR九州、特急ソニック(行橋駅で見ただけ、乗ってない)

 小倉から日豊本線で瀬戸内海沿岸の行橋市へ。そこで平成筑豊鉄道という第3セクターに乗り換える。
 のどかな田園地帯を走るワンマンカーで10分たらず、無人の豊津駅で下りる。

 御所ヶ谷神籠石へ行くには、豊津駅から西へ3kmほど歩き、さらに南へ1.5kmほど歩くことになる。バスはない。

(赤線が歩いたルート、右から左へ)


 豊津駅を出て今川という川を渡ると、豊かな田園風景が広がる。水田が多いが、麦畑もある。

 麦畑が広がる(清池神社周辺)

 このあたりは「京都平野」と呼ばれている。京都と書いて「みやこ」と読む。
 行橋市とその周辺一帯は、古くから「京都郡」と呼ばれてきた。クマソ征伐に来た景行天皇が仮宮を作って滞在したから、とのいわれが伝えられている。

 「古事記」「日本書紀」(以下「記・紀」)によると、景行天皇は神武から数えて12代目。九州には7年間滞在したとされる。彼は100年以上生きて10人の妻と80人ほどの子をなし、そのうちの一人がヤマトタケルということになっている。

 景行天皇に当たる人物が実在したと仮定すれば4世紀ごろか。この時代は、ヤマト政権が日本各地に勢力を伸ばした時代に重なる。
 オオタラシヒコ-オシロワケという本名が2人の名前を合体させたような名前であることから、景行天皇はヤマトの大王と西国を征服した人物の業績を合体させた人物ではないかとの説もある。
 同様に、日本中を飛び回った息子のヤマトタケルも複合人物であるとの説が有力だ。

 いずれにせよ、古代からここが「みやこ」と呼ばれていたということは、それだけ重要な場所だったに違いない。しかもこれから向かうのは御所ヶ谷。「京都」「御所」である。
 どんなところかな〜っと。ワクワクするのぉ♪

 まっすぐ西へ向かう主要地方道にほぼ平行して、南に低い山の連なりが見える。最初に馬ヶ岳が現れ、次に御所ヶ谷のあるホトギ山(地図では御所ヶ岳)が見えてくる。

 
(左)馬ヶ岳(大池から)   (右)左のピークがホトギ山、その右側一帯が御所ヶ谷の神籠石地帯

 ちなみに馬ヶ岳の山頂にも城跡がある。
 馬ヶ岳城は10世紀に築かれ、14〜15世紀は新田氏の居城となった。戦国時代になると争奪戦が繰り広げられ、1587年には島津氏征討のため九州に上陸した豊臣秀吉も滞在している。
 どうもこのあたりはいつの時代も、戦略的な重要拠点だったようだ。

 ま、このことはあとで考えることにして、まずは歩くことが大事だね。

 湿度が高くてむし暑い5月末。汗をかきかき、1時間近くかけてようやく御所ヶ谷の入口へたどり着いた。
 入口には駐車場があり、傍らに住吉神社がある。住吉は古代の権力バトルに大きくかかわる航海の神だが・・・妄想がまたふくらむぞ。

 その横に真新しい案内板が立っている。それによると周囲約3km・・・って、鬼ノ城よりデカイやん。
 南はホトギ山から西に連なる稜線に沿い、神籠石に囲まれたエリアはその北側斜面を占める。いくつかの谷や尾根にまたがっており、エリア内には遊歩道がつけられているようだ。

 案内板には例によって、「7世紀に大陸からの侵攻に備えて・・・」と記されている。

 
(左)最後の田んぼ、ここから谷に入る   (右)現地の説明版。上部の山稜が南で、下部が北になる

 舗装道路を登ってゆくと、住吉池という人工の大きなため池がある。それを半周すると舗装道路が終わり、また案内板があって、そこから谷に沿う山道が始まる。

 ここから山道

 きれいな沢の周辺には、石仏などがあちこちに並んでいる。ここは弘法大師ゆかりの聖地でもあるらしい。古代遺跡が後に別の宗教の聖地になる例はときどき見かける。

 山道を登り始めて5分もたたないうちに、いきなり正面に、谷を堰き止めるかたちで巨大な石垣が現われた。御所ヶ谷の中央口はこれだな!
 うーむ、1個1個の石がデカイ。それに形や寸法が揃っている。排水設備もしっかりと組まれているぞ。現代の石積み技術と比べてもそんなに遜色ないんとちゃうか、これは。

 
(左)中央口の石垣。下のほうに排水設備がある   (右)排水設備。リュックと大きさを比べてね

 
(左)この4段でほぼ俺の身長(171cm)くらい   (右)石積みの上から見下ろす。敵を狙い打ちだ!

 それにしても、鬼ノ城は険しい山を登った山頂部にあったが、ここはずっと里に近い。
 しばらくあちこち見てから、西側の斜面を登った。谷からわずか3分ほどで、京都平野を一望できる尾根に出た。
 尾根には景行神社があった。むろん景行天皇を祀っているのだろう。

 
(左)尾根に登ると京都平野と瀬戸内海が見える   (右)景行神社

 神社の後ろに建物跡の礎石あり。左のピークはホトギ山

 ホトギ山の頂上は見晴らしがいいらしいが、今日はあまりに湿度が高く、かすんで遠くが全然見えないのでパス。
 景行神社の裏手からさらに西の谷へと下る。谷を埋めるウラジロの新緑が美しい。

 わずかな下りで、おだやかな谷に出た。
 このあたり一帯は山といっても地形が極めてゆるやかで、なんともいえぬやさしさに溢れている。

 少し下ると、馬立場と呼ばれる小さな広場がある。沢沿いには石垣があり、人工的に平らに整地されたような感じだ。

 
(左)西側の谷へ、ウラジロが繁茂する   (右)馬立て場

 
(左)馬立て場の石積み遺構   (右)おだやかな谷間を下る

 ふーむ、なんだかこの谷、いいね。清い水がゆるやかに流れてて、ちょっと手を入れたら素朴な庭園みたいになるだろう。
 生活するにもよさげだな。北側斜面だから夏の照りつけもいくぶんマシに違いない。

 京都、御所・・・か。なんとなく合点がいくような感じを覚える。

 数分の下りで、今度は西口の石垣が現われた。中央口とほぼ同じようなものだ。

 
(左)西口の神籠石   (右)中央口より激しく崩れている

 あちこちの斜面に小さな神社や石仏がある

 西口を出てしばらく歩くと、住吉池に出た。池を半周して、元の御所ヶ谷入口に戻った。


★この立地が気になる

 という具合で、御所ヶ谷はなかなかよいところだった。京都平野に広がる田んぼの奥の、ちょっとした秘密の谷間。Valley of peace という感じがした。

 気になるのは、なぜこの場所にこういう大規模な遺構があるのかということだ。
 となると、地図だな。
 下の図を見てちょうだい。白が陸地、青は海だ。熊山のときよりは上達したでしょう?

茶線:山脈
青線:遠賀川

赤線:昔の国境

灰色の円:京都郡

右の赤三角:御所ヶ谷神籠石
左の赤三角:鹿毛馬神籠石

上の緑三角:香春岳
下の緑三角:英彦山

 海は右側が瀬戸内海、左側が日本海(玄界灘)で、中央の狭い部分が関門海峡ね。
 赤線は昔の国境を表しており、線の右側が豊国(とよのくに)、左側が筑紫国。国境があるということは、文化圏が異なることを意味する。

 そして三角印が4つある。
 一番下の緑三角は北九州の聖なる山、英彦山(ひこさん)だ。
 残りの3つは横に並んでいる。右端の赤い三角が今回訪れた御所ヶ谷神籠石だ。その付近の灰色が京都郡を示す。
 真ん中の緑の三角は香春岳で、左側の赤い三角は鹿毛馬(かけのうま)神籠石。鹿毛馬には行ってないけど、御所ヶ谷と同様の朝鮮式山城の跡らしい。

 まず、神籠石が大陸からの侵攻に備えるためのものなら、玄界灘沿岸や関門海峡周辺に造るべきだと思いませんかい? でもそのあたりに神籠石は存在しない。
 御所ヶ谷は瀬戸内海に面している。
 瀬戸内海全体で見ると、御所ヶ谷のある京都郡(灰色の円)は瀬戸内海の西のドンツキだ。そしてこの地図にはないが瀬戸内海の東のドンツキには大阪があり、ヤマトがある。

 御所ヶ谷は朝鮮半島ではなく、瀬戸内海を挟んでヤマトと向かい合っているわけね。

 もうひとつ気になるのは、御所ヶ谷から西の山脈を越えたところにある緑の三角、香春岳だ。この山は銅の産地で、今も「採銅所」というJR駅がある。
 つまり、瀬戸内海から見て香春岳への入口にある場所、それが京都郡だ。

 瀬戸内海の向こうのヤマトは、銅、ほしかったでしょうね。実際、香春岳の銅は奈良の大仏建立に使われた

 さらに、香春岳の左にある鹿毛馬神籠石も気になる。
 香春岳は両神籠石に挟まれており、鹿毛馬―香春岳―御所ヶ谷はほぼ東西の一線上に連なっている

 図の赤い線も見てほしい。
 九州北部は、早くからヤマト政権の影響下にあったといわれる「豊国(とよのくに)」と、イワイの乱(6世紀前半)あたりまで独自文化を保持したとも考えられる「筑紫国(つくしのくに)」とに分かれる。
 そして鹿毛馬神籠石は筑紫に属している。

 国境というものはたいてい山脈や大きな川などの自然地形によって分けられるが、ここでは京都郡の西の山脈を越えて、香春岳周辺の遠賀川支流1本分だけが豊国に取り込まれていることに気づく。(ついでに、北部九州の信仰の総本山である英彦山も豊国に取り込まれている)

 なんかねー、見ようによっては豊国と筑紫国で香春岳を獲り合いっこしたようにも見えるわけね。

 このような立地条件からして、御所ヶ谷は対外防衛拠点というよりも、日本列島内の権力対権力の狭間あるいは尖端に位置していたと考えざるを得ない。

 では、そこにある古代朝鮮式山城は、誰と戦うために誰が造ったものなのか。
 いやー複雑ですね〜、おもしろいですね〜。


★巨大石室の円墳へ

 さて、御所ヶ谷の5kmほど北に巨石を使った古墳群があるというので行ってみた。距離の近さから、御所ヶ谷との関連が深く感じられるわけだが。
 ここは俺が訪れた当時は京都郡勝山町だったが、現在は周辺の町と合併して京都郡みやこ町となっている。

 赤線が歩いたルート(下から上へ)

 
(左)北へ離れてゆく。山の中央部一帯が御所ヶ谷   (右)綾塚古墳近くから。左の山が馬ヶ岳、右の山が御所ヶ谷

 上の左写真は御所ヶ谷を少し北から振り返ったところ。右写真はもっと離れて、古墳群の近くから振り返ったところ。このあたりも米麦2毛作のコントラストが楽しい。

 京都郡の古墳でもっとも有名なのは綾塚古墳だ。
 「邪馬台国京都説」というものを唱える人もおり、それでいくとこの綾塚古墳は卑弥呼の墓ということになる。

 綾塚古墳は、勝山黒田地区の西に連なる低い丘陵の麓にあり、民家の奥まったところにあった。
 大きな円墳だ。横穴式の石室が口を開けている。

 
(左)綾塚古墳、鳥居には「女帝神社」と書かれてある   (右)入口、右側に支えの石柱らしきものが見える

 横に立っている案内板によると、この古墳は地元では「綾塚の郷屋」と呼ばれ、景行天皇の妃である八坂入姫を祀ってきたとのことだ。明治に入ってから女帝神社と改められたらしい。
 円墳の直径は41m、入口から玄室まで21mあるという。とにかく入ってみた。

 
(左)古墳内部   (右)左右の立石が迫力。正面の賽銭箱には「女体神社」と書かれてあった

 鉄柵の中の石棺、フタが中央で割れている

 玄室への通路の広さ、奥深さもさることながら、使われている石材のバカでかさに圧倒される。壮大だ。
 しかもこれ、この石の角の丸みや積み重ね方は御所ヶ谷の石積みに似ている。ていうか同一技術としか思えない。

 近くにもう一つ大きな古墳がある。橘塚古墳だ。これは黒田小学校の敷地内にあって、一瞬見られるのかなと躊躇したが、ちゃんと見学できるようになっていた。

 
(左)橘塚古墳遠望、平野のまんなかにある   (右)橘塚入口

 
(左)橘塚古墳の内部   (右)石室はカラッポ

 石室内部から外を見る

 こちらも綾塚古墳とほぼ同じ40mサイズの円墳で、石の積み方も同類だ。でも綾塚のように信仰されてきたケハイはまったくない。なんかちょっと浮かばれない感じのさみしげな古墳だ。

 これらの古墳から副葬品は見つかっていないようだ。「石室の構造などから」6世紀後半から7世紀初頭の構築と推定されているらしいが、それはたぶん、この石室と酷似した御所ヶ谷の石積みをその年代と考えて、つまり例の天智天皇の国防説からの推定なのだろう。

 円墳という形態も気になる。
 天智天皇の命令にヘイコラ従って巨大な軍事施設を造営するほどヤマトべったりの豪族ならば、前方後円墳を造るような気がするなあ。実際、同じ京都郡の苅田町には4〜5世紀に九州最大の畿内型前方後円墳(石塚山古墳)が造られているわけで。

      *     *     *     *     *     *     *

 以上、見てきた印象をまとめると、こうだ。

 御所ヶ谷は周囲3kmに及ぶ巨大な城だが、立地や現地の様子から、外国との戦争に備えた中央政権の軍事施設という感じが全然しなかった。鬼ノ城で感じた疑問が、ここではその何倍もに増幅された。
 本当に外国の侵略から日本を守る気があるんなら、もっとそれなりの陣地の築き方があるやろと。
 つまりこの城は、日本という統一国家が形成されるよりももっと前の時代のものではないか。

 次に印象に残ったのは、巨大な石を扱うすぐれた技術だ。御所ヶ谷の門や綾塚・橘塚の古墳に見られた石積みは、鬼ノ城で見られた角張った石とはずいぶん異なるものだった。

 そして重要なのは、京都郡の地政学的な位置だろう。
 西は香春岳の銅山を挟んで筑紫と、東は瀬戸内海を挟んでヤマトと対峙するという、まさに古代日本の東西2大勢力の狭間にピンポイントで立地しているのがこの京都郡だ。
 しかも北には関門海峡の向こうに朝鮮半島があり、南は山の向こうにクマソの土地がある。

 いわば、ここは文明の十字路だったのだ。

 もっぺん見てね

 そんな場所が古代日本で覇権を争う豪族たちの争奪の的になったであろうことは想像に難くない。
 そのバトルを勝ち抜いてこの地を支配した王は、この地でしか得られない情報と利益を得て王国の繁栄を築き上げたことだろう。

 御所ヶ谷は、そんな一族の居城ではなかったか。
 むろん朝鮮式山城である以上、それは渡来系氏族だったか、あるいは渡来系氏族のバックアップを得た勢力だっただろう。

 御所ヶ谷は、おだやかな山ふところに包まれた素敵なところである。広々とした城内には清らかな川が流れ、北向きの谷間は真夏でもある程度涼しいはずだ。
 麓の平野では米と麦が2毛作で収穫され、海も遠くない。一山越えれば採銅所がある。
 しかもこれだけ広大な城ならば、外敵が攻めてきたときには農民たちをかくまい、兵糧もたっぷりと蓄えこめたに違いない。

 この豊かな王国の土地が、いつしか「豊の国」と呼ばれるようになった。
 積み上げられた石の城壁や水門、そして一族の王たちが眠った大円墳の荘厳な石室は、その証だ。

 では、そんな王国が存在したのなら、それはなぜ「記・紀」に記録されなかったのだろうか。

 美しい御所ヶ谷の風景の中でとくに印象に残った場所のひとつが、見晴らしのいい尾根に立つ景行神社だった。
 京都郡と景行天皇は、たんに「九州に来たときに滞在した」ということ以上の関係があったような気がしてならない。彼の息子とされるヤマトタケルも九州のクマソ征伐でたくさんの業績を上げている。
 親子でやたらと九州づいているのだ。

 景行神社ももっかい見てね

 もう一つ気になることがある。それは「記・紀」でヤマトタケルの子とされる仲哀天皇だ。
 祖父・景行天皇と父・ヤマトタケルに続いて、仲哀天皇もまたクマソ征伐のために九州へやってきた。
 だけど、「住吉神のお告げによる新羅征伐」を主張した妻・神功皇后(朝鮮半島系?のシャーマン)と武内宿禰(たけのうちのすくね、海人族?)と対立し、彼は神託に逆らったということでいきなり病気で急死してしまう。
 しかも、天皇が死んだというのに葬儀も行なわれず、仲哀天皇の遺体は武内宿禰によって九州からこっそりと下関あたりに運び出されたことになっている。

 わけのわからん、おかしな話だ。
 「記・紀」のこのあたりの記述はあまりにも不自然で、なんらかの重要な事件を糊塗しようとしているようにも読める。

 わけのわからん仲哀天皇は、ヤマトタケルや神功皇后とともに架空人物説が強いが、じつは彼も京都郡にゆかりがある。
 京都郡と香春岳方面との間には300m級の山が連なっているが、そこを越える峠を仲哀峠という。現在はその下を仲哀トンネルと新仲哀トンネルが通っている。
 その名はもちろん、仲哀天皇がこの峠を越えたという伝承があるからだ。

 ここで俺は以下のように考える。いつのもように古代妄想が膨らみまくっているので、よい子のみんなはウノミにしないように。

 実在が怪しまれている景行天皇(複合体の半分)・ヤマトタケル(同)・仲哀天皇の3代は、じつは4世紀に豊国を支配した一族であり、御所ヶ谷はその居城だった。もちろん畿内ヤマト政権とは別の王権として。
 つまり、京都郡はヤマトの天皇の仮宮ではなく、本当の「ミヤコ」だったのだ。

 だとすると仲哀天皇の不自然な死は、豊国ミヤコ王権の乗っ取りを企む神功皇后側が仕掛けた、政略結婚を偽装した暗殺だったとも考えられる。

 「記・紀」によると、仲哀天皇が死んだ翌年に神功皇后が福岡で産んだ応神天皇は、やがて豊国から船出して瀬戸内海を攻め上り、畿内のヤマト政権を再征服した。
 そして九州勢力と畿内勢力を統合した応神王朝以後、倭は統一国家・日本へと固まってゆくことになる。

 ようするに、応神天皇の九州での権力基盤は豊国ミヤコ政権から継承したものだった。その経緯があったがゆえに、豊国ミヤコ政権の王たちが天皇家の系図に組み入れられることになった。
 このような可能性も考えられまいか。

 ・・・スマヌ。あくまで生半可な知識に基づく俺の勘だ。ははは〜。

 いずれにせよ、この地に独自の巨石文化を持ち、豊かに繁栄した人々がいたことは確かだろう。
 京都郡はその一族の「ミヤコ」であり、御所ヶ谷は文字通りに「御所」だった。

 橘塚古墳の傍の麦畑に囲まれたバス停で、なかなか来ない行橋駅行きのバスを待ちながら、俺はそんなことを考えて、一人なぜかちょっと愉快な気分になっていた。

 おしまい。 (記:09.5.10)

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