ちぎれそうなところ
阿曽浦(あそうら)(三重県度会郡南伊勢町) 2009.3.18
五ヶ所湾の礫浦へ行ったついでに西隣の贄湾の地図を見ていたら・・・おんやぁ〜?

 

この形は・・・またしてもトンボロかっ!?

でも、あれれ〜、トンボロの反対側に橋がかかってる・・・?
 地図をよく見てみよう。
 太平洋に口を開いた贄湾の中ほどに、細長い島の大と小がまるで親子のように並んでいる。その大きいほうの島が東側の本土とトンボロでつながっている。そこが阿曽浦だ。
 長さ300m弱、幅は100mくらいしかなさそうな小さなトンボロだけど、しっかりと集落が乗っている。

 調べてみると、かつてこの阿曽浦へ行くには、贄湾の奥のリアス式海岸をグニグニとなぞるか、船で渡らないと行けなかった。でも近年、西側の本土(慥柄《たしから》浦) から大小の島をつなぐ2つの橋(南島大橋と阿曽浦大橋)が架けられて、すいすいと短時間で行けるようになったらしい。
 2つの橋は親子橋と呼ばれ、日本の橋100選にも選ばれているんだと。あれも100選、これも100選のけふこのごろだ。

 ともあれ、阿曽浦はトンボロの本土側からではなく陸繋島側から入るという、なんだかよくわからないことになったユニークなトンボロだ。自然の力による砂の架け橋よりも、人間の技術による鉄の橋が勝ってしまったといえるかもしれない。

 ただし公共交通は伊勢市から三重交通バスで道方まで1時間、そこで町内バスに乗り換えて8分。これでも橋ができてずいぶん早くなったようだ。

 このトンボロも前後左右にウロウロしたが、例によって各部分ごとに整理して記述する。
陸繋島からトンボロ入り
 ふたつの橋を渡って、陸繋島(名前は不明)の北側を回り込むと、樹間にちらちらと阿曽浦トンボロが見えてくる。が・・・。

 あれだな。でもなんかダムみたいな・・・


拡大・・・て、堤防だ! 超巨大堤防だぞ!

 こいつはたまげた声が出た。
 トンボロの背後に、もんのすごい堤防が屏風のように立っている。そして外海との間を完全に遮断しているぞ。

 ともかく近寄ってみた。すると、トンボロの手前あたりから内海側が埋め立てられ、平地が広げられている。

 
(左)地図の「×」印あたり、トンボロ手前の陸繋島沿岸部の埋め立て   (右)そしてトンボロ部分の埋立

 このトンボロは礫浦と違ってペッタンコだ。そして内海は鏡のように静止した水面で、岸辺は埋め立てられた上で漁船用の岩壁が直線的に整備され、堤防は存在しない。
 それに対して外海側には、見上げるような巨大堤防が築かれている。

 陸繋島のトンボロ正面にギザギザの山道が作られてあったので、そこを登って下を眺めてみた。
 木が茂っていてきれいには見えないけど、全体像は把握できる。

 
(左)向かいの山が本土、右側が外海の堤防側   (右)左のほうの車が並んでいる部分は内海側の埋立地

 上の2枚よりも冒頭写真のほうがよくわかるかな。右に外海の巨大堤防、左には内海の埋立地。正味のトンボロはかなりプチサイズのようだ。

 斜面から見た内海

 これ以上登っても樹木が茂って見えそうになかったので、トンボロへ降りた。
内湾側(北)
 内海側は、トンボロの真ん中より陸繋島寄り(西)で20〜30mほど沖まで埋め立てられ、おもに駐車場として利用されている。
 陸繋島寄りの部分から海に沿って見ていこう。

 こんな案内板がある。正面にガソリンスタンドが見える

 上の案内板にはこう書かれている。
 「アソという地名の原義は、『水の浅い所、湿地』ということから表記されている」
 日本語の文法がおかしいのはまあいいとして、ここでは「あさい」→「あそう」→「あそ」という説が取られている。
 トンボロ砂州が満潮時でも常時露出するまで完全に成長しきっていなかった時代にはむろん浅い海だったわけだから、そうなのかもしれん。でも俺としては、日本各地のアソ地名は阿蘇山や浅間山と同じく海人族に関連するとの説に大きく傾いている。すぐ近くの礫浦にも浅間山があったしね。ひいては現在のアソー総理大臣もこのアソとつながりがあるかもしれん。
 これについて語ると興奮して話がトンボロから遠く離れてしまうので、このへんでやめとこう。

 内海側は、路面電車乗り場のように思い立ったらいつでも船に乗れるようなフラット構造になっている。これはこの内海がいついかなるときも常にベタ凪ぎであることを表している。
 静かな内海では真珠貝の養殖が行なわれている。

 
(左)そのまんまひょいと乗船可能    (右)このへんで埋立地は狭くなる


トンボロの東西の中間あたりから本土側(東)を見たところ

 上の3枚連続写真を撮った場所は、トンボロの東西のほぼ中間地点にあたる。右写真だけ逆光で暗いけど、中央の白い車の背後は外海の壁だ。トンボロの幅が100mほどしかないことがわかる。
 この先(本土側)は、狭いトンボロ内に民家が密集している。
 逆に、ここでカメラを構える俺の背後(陸繋島寄り)は埋立でトンボロ幅が広げられ、ガソリンスタンドや倉庫、船舶関連用地、バス停など業務用に利用されている。

 こんなふうにトンボロが真ん中で半分に分けられ、別々の用途に使われているのははじめて見た。

 
(左)トンボロと本土の付け根あたり    (右)その地点から陸繋島方面を振り返る
外海側(南)
 今度は外海側を、同じく陸繋島寄りから歩いてみよう。まあとにかくゴツイ堤防だ。

 
(左)遠くからは垂直の壁に見えたけど、近寄ると斜面になっている    (右)堤防に登って外海を見る

 ここではじめて外海が見えた。
 海岸線には三角形の消波ブロックが並べられている。写真で見ると小さいが、じつはこれ1つ1つがすごくバカでかい。そして浜には大量の砂が積み上げられている。今後さらに補強しようということなのかもしれない。
 目をトンボロ側に転じてみよう。


堤防上から見た阿曽浦トンボロ。正面は紀伊半島本体(219.9mピーク)、左は内海

 手前のほうはおもに業務用地、青い屋根の家よりも向こうが住宅密集地になっている。
 堤防上を本土側(東)へ歩いてみた。

 
(左)堤防補強材らしきコンクリ物体と砂が整然と並んでいる    (右)あっちは阿曽浦のもう一つの部分

 阿曽浦は、じつは二つの部分から成っている。このトンボロと、もう一つは右上写真に見える集落だ。
 あっちは大方という入江の口に堆積した砂州上に位置していて、やはりぎんぎんに消波ブロックでガードされている。島とつながっているわけではないのでトンボロではなく、砂州と対岸との間には水路が開いているが、砂州上の集落である点は同じだ。でも時間の関係で行けなかった。

 さっきの案内板によると、かつて阿曽は「浦」と「里」の2地区に別れていたのが、明治9年に1つの村に統合されたという。どっちがどっちかは書かれていなかったが、宇久井のトンボロ集落や甑島のトンボロ集落が「里」であることを考えると、ここもトンボロのほうが里なのかもしれない。

 
(左)トンボロの住宅密集地部分    (右)外海、贄湾の湾口を見る

 左上写真、堤防の下に道があって、その道と住宅地との間にまた2mほどの塀がある。かつてはこの塀が外海との間を遮断する防潮壁だったと思われる。
 巨大堤防は、たぶん伊勢湾台風のあとに造られたものだろう。

 堤防上を本土側の付け根まで歩いて、やや高くなった部分からトンボロを眺めたのが下の写真だ。

 トンボロ南東端(冒頭地図の鳥居マーク)から

 本土側の山に登って全体をしっかり眺めたいと思っていたが、ここも照葉樹林モコモコでとうてい見えそうにないので諦めた。
 堤防から外海側へ降りる階段があったので下りてみた。

 
(左)もうひとつの阿曽集落へつながる道が通っている    (右)外海側から見た巨大堤防

 
(左)堤防下の道路には津波用の閉鎖トビラがある    (右)内側の塀にも閉鎖トビラあり

 堤防下の道路をくぐってトンボロ内側へ入ると、内側の旧防潮壁にも遮断トビラがあった。それが右上写真。
 ここからトンボロ集落の内部に侵入した。
トンボロ内部
 俺好みの狭い路地が続いている。
 堤防上からはペッタンコに見えたトンボロ集落だが、中に入ると、外海から内海に向けて、ゆるやかな下り坂になっていた。

 
(左)二人並んでは歩けない    (右)ゆるい下り坂がゆるくカーブする

 路地の交差点から陸繋島方面をみたところ

 2分くらいで内海に出てしまった。もしかして、これまでのトンボロで最も狭いのではないだろうか。
 内海沿いの道を陸繋島方面へ戻りながら、集落内に走る路地を1本1本覗いた。日本の古来の漁村を感じさせる、濃厚で味わい深い家並みだ。

 
(左)さっき下った路地の1筋西の道、これがいちばん広い    (右)2筋目、渋い

 
(左)3筋目か4筋目、最高    (右)最後の路地

 右上写真の路地の次で、もうさっきの3枚連続写真のところへ戻ってきてしまった。

 現在の阿曽浦トンボロは、巨大堤防や内海側の埋め立てによってコンクリガチガチに固められており、外見的にはひなびた漁村の風情があまり感じられない。
 でも本来は非常に細くて小さなトンボロであり、その東半分に密集した集落もまたじつにコンパクトだ。

 今後さらに補強されそうな巨大堤防の存在は、もともとこの阿曽浦が繊細な地形に立地する漁村であることを意味している。
 それでも中世以来ここに人が住み続けてきたのは、この性格の異なる2つの海に挟まれた特別な地形が、海民にとっての地の利をもたらしていたからかもしれない。

 海に生きるということは、豊かさと危険と、2つの顔が常に背中合わせ。
 それはまるでトンボロ地形そのものだ。

 おしまい。 (記:09.4.21)
このページの頭トンボロの町へちょっとした旅ホーム