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これまでに登ったふしぎ山の中でも特筆すべき、強い印象の残る山だった。 平戸島は、「本土から船に乗らずに行ける最西端の島」。全長30kmを超える大きな島で、南端部は細長い半島が東シナ海に突き出している。 その半島に、大昔から霊山として崇められる、この尖った山がある。 冬の最西端の夜明けは遅い。6:45の宮之浦行き始発バスは、俺一人だけを乗せて、真っ暗な平戸桟橋バスターミナルを出発した。 島の北部にあるバスターミナルから南の半島部へは1時間以上かかる。海岸沿いに南下するうち、少しずつ夜が明けてくる。 この山に登るには半島中央部の野子バス停からが近いが、俺はバス終点の宮之浦までいったん行くことにした。 宮之浦は「本土から船に乗らずに行ける最西端の集落」だ。つまり本土から見たら「最果ての地」ということになる。だが、古代には逆に、ここは大陸文化が日本で真っ先にやってくる最先端の港、つまり日本本土の玄関口だった。 志々伎山への信仰は、そのことと深い関係がある。 赤線が今回のルート 8:10に宮之浦に着いた。風がきつく、雨なのか雪なのか、細かく冷たい水分が飛び交っている。 そういや前日に見たテレビの天気予報では、「明日の長崎県はこの冬一番の冷え込み、天気は雪、強風波浪に警戒が必要です」と言っていた。 上等だ。最果てには荒れ模様が似合う。 尖った志々伎山は、古代の海路の重要な目印だった。波高い東シナ海を渡り、この山に導かれて辿り着く宮之浦には、湾内の小島に「沖津宮」、浜辺に「辺津宮」が祀られ、守護神たる志々伎山の中腹に「中津宮」、山頂に「奥津宮(上津宮)」が祀られた。 この四つを総称して志々伎神社という。 三つの宮が1セットになった神社はよくあるが、四つセットは珍しい。志々伎神社は古来より、壱岐・対馬を除く長崎県域では最高位の社格を有してきたという。 意外にも、宮之浦港からは志々伎山の姿が見えなかった。 冷たい強風になぶられつつ沖津宮・辺津宮をまわってから、バス道を2kmほど歩いて戻る。小さな峠を越え、東の福良湾側に抜けた瞬間、ようやく志々伎山の尖鋒が目に飛び込んでくる(冒頭写真)。 山頂部はまるで矛先だ。空に向かって人差し指を突き上げたようにも感じられる。 湾に沿って南へ歩くと、山は少しずつ姿を変える。 (左)福良湾の入口付近からのアップ。岩塔右の切れ込みが目を引く (右)福良湾の奥から 福良湾のいちばん奥でバス道から離れ、山に向かう農道に入る。強風に舞っていた水分ははっきり雪になった。 貯水池を越えて少し登ると、野子から登ってくる道と出会う。俺は宮之浦でバスを降りてから1時間以上歩いているが、素直に野子から登っていれば10分ほどだろう。 すぐに中津宮(中宮)の鳥居が見え、奥に古い参道が続いている。山腹に車道もついているが、ここはやはり古い参道を登るべきだろう。 参道は苔むして鬱蒼としている。幅の広い尾根道が大きくえぐられ、露出した岩盤が削られて階段になっている。古来から相当な数の人々がこの参道を行き来したようだ。 (左)中津宮の参道入口の鳥居 (右)参道 参道はけっこう急な登りが長く続き、この寒いのに一汗かかされる。15分ほど登るとポンと舗装道路に出て、9:45に中津宮に到着。 (左)真新しい拝殿。これを再建するために車道を作ったのだな (右)旧参道終点にある中宮跡 中津宮の右側車道を少しゆくと地道が分岐し、そこを入ると中宮跡がある。昭和の末期までここに中津宮があったらしい。 その先から道はぐっと狭くなり、いよいよ山道がはじまる。 (左)志々伎山頂への道 (右)少し登るとマキの巨木がある 最初は樹林に囲まれているが、間もなく岩場が多くなる。ロープが設置されているが、そう危ない場所はない。この山の南面はズバッと東シナ海に切れ落ちている。道はその斜面をへづって、山の西側から東側へと回り込んで行く。 ふいに海の見える場所に出た。海は強風に白波が立っており、正面に五島列島が見える。 行く手を見上げると、山頂の岩峰が聳えている。 (左)岩の斜面を登る (右)海の向こうに見える五島列島 (左)山頂の岩峰を仰ぎ見る (右)岩の窪みに祠があった さらに進むと道が2又になっているところに出る。そこにはこんな石の道標があった。 (左)明治33年と彫られている (右)この手! ここから道はしばらく下り、南斜面のわずかな隙間を縫ってじわじわとまた登ってゆく。 岩場には新しいロープが十分に設置されている。こんな最果ての山にも登山者が増えているようだ。 志々伎山は、誰が決めたのか知らないが「九州百名山」に選ばれたらしい。そのため、選ばれなければ来なかったであろう人たちが「百名山制覇」のために団体でやって来る。 でもこの日は俺以外まったくの無人だ。荒天に一人ぼっちというシチュエーションに静かな興奮を覚える。 南斜面をへづり終えて山の東側に出たあたりに、またこの石の道標がある。 (左)今度のはかすれて読めない (右)手は上を指している ここから道は急傾斜になる。少し登ったところに大きな岩があり、立て札に「草履置場」と書かれている。かつてはここで草履を脱ぎ、この先は裸足で登ったらしい。 (左)草履置場 (右)草履置場を過ぎると急傾斜の岩場になる やがて森が切れ、岩稜の端に出た。とたんに強風が吹きつけ、細かい雪が全身に張り付いてくる。頂上は近そうだ。 (左)この岩場を登ると頂稜に出る (右)下から雪が吹き上げてくる 風雪から身を隠す場所がどこにもない。腰をかがめてじっと耐えていたら、幸いにして数分で雪は弱まった。雪雲そのものが飛ばされてしまったかのようだ。 前方を見ると、頂上部の痩せた稜線がむきだしでずっと続いている。この山は東西に長く頂稜が延びているようだ。まるで刃物を上向きに寝かせたように。 その岩稜をじっくりと進む。 (左)雪がおさまると、雲の切れ目から光の筋が東の海を照らした (右)頂稜の岩場 やがて山頂部が正面に迫る 背丈に満たない冬枯れの灌木の中、一筋の山道を上り詰める。 たどり着いた狭い頂点では、俺の腰の高さほどの石造りの奥津宮が、黙って俺を待っていた。中津宮から40分だった。 山頂の奥津宮 (左)祠の前の置物 (右)祠の内部。神鏡らしきものが見える 奥津宮の後ろに回ると、立っていられないほどの荒っぽい西風が下から叩きつけてくる。カメラをまともに構えることができない。 風上の方角には、宮之浦集落のさらに西に突き出た岬の突端と、いくつかの島が見える。その向こうには五島列島、周囲には東シナ海の大海原が全面展開する。 強風ともあいまって、とても300mやそこらの山とは思えない高度感だ。なにやらもう、感無量としか言いようのない思いで胸がいっぱいになる。 (左)すごい風が吹きつける西の方角 (右)はるかに五島列島 辛抱できずに奥津宮の正面にしゃがみこむと、ウソのように風が届かない。まるでエアポケットだ。 風は西の海上から志々伎山の急斜面を吹き上がり、そのまま上空へと飛び去って行く。 大陸から船で東シナ海を渡り、五島列島に達したとしても、五島と平戸島の間には対馬海流の激しい流れが渦を巻いている。風もこんな状態だ。だが平戸島の東側は九州との間のおだやかな内海になっている。 古代の船人は志々伎山の尖った山頂を目指して必死に海を渡り、宮之浦に辿り着いてはじめて、日本列島に達した喜びと安堵を覚えたことだろう。まさにここは日本の玄関だったのだ。 登ってきた道と南東の海を山頂から見下ろす 奥津宮の前にしゃがみこんだままパンを食べ、お茶を飲む。気温は4度を指している。 15分ほどで山頂をあとにした。雪はほぼおさまり、風も少しはやわらいだようだ。頂稜から、志々伎湾を挟んで平戸島の本体方面がよく見渡せるようになった。 (左)志々伎湾の対岸に見える礫岩(拡大)。強烈に魅かれる (右)これから向かう北東稜 志々伎山に登る道は今回登った道1本だけだが、下りはそれを戻らずに、北東に延びる尾根をたどることにした。 国土地理院の地図には、尾根を直線距離で800mほど下ったあたりに、半島付け根の船越へ抜ける破線ルートが書かれている。そこへ出て船越まで志々伎半島を縦断しようと考えた。 頂稜を戻り、草履置場の上あたりから森に入って北東稜へと踏み出す。 こちら側は山頂の陰になって風があまり当たらない。岩場が多く、ぶら下がったり飛び降りたり、行きつ戻りつしながらじわじわ進んで行く。天狗かカモシカにでもなった気分。 (左)北東稜最初のピーク (右)やせた尾根筋 (左)イワヒバ、冬はこんなふうになるのを初めて知った (右)稜線の歩きやすい部分 尾根筋は歩きやすい部分もあるが、サルトリイバラなどに阻まれて迂回しなければならない場所も多く、なかなか進まない。踏み跡のように見えるところも現れるが、ほとんどはヤブ漕ぎだ。磁石で確認しながら主稜を外さないよう慎重に進む。 40分ほど経ったころ、ふいに小ピークにコンクリの標石を見つけた。たぶん地図にある215m地点だろう。 (左)小さな標石、大きな安心 (右)さらに下った場所から振り返る志々伎山。ここからは尖って見えない 問題はそこからだった。このあたりからは北側に何本もの細い尾根が派生しており、破線ルートに至る尾根の同定が難しい複雑な地形になっている。 1分おきに磁石と地図と地形を見比べながら慎重に進んでいると、明らかな踏み跡が現れた。喜び勇んで歩みを進めるうち、山腹を横切る、もっと明らかな踏み跡に出た。 山頂から1時間5分。これが地図の破線に違いない。 だが、じつはそうではなかった。 踏み跡を東へたどると、ルートは濃密なシダのヤブに阻まれた。そこを強引に押し通ると沼地に出た。沼地のヘリに石垣が見えるから、かつて水田が開かれた跡のようだ。 地図の破線は途中で谷を通過しているから、ここがその谷だろうと推測した。しかし、その先はトゲトゲのヤブで、どうあがいても進めない。破線ルートはすっかり廃道になってしまったのかな。 水田跡とおぼしき湿地 石垣の上部には別の踏み跡がある。それをたどってみたが、山腹から尾根を巻いたところで濃密なシダヤブに閉ざされる。どう考えてもこれはおかしいぞ。 おまけにトゲだらけのヤブをくぐるうちに、いつしか地図とタオルが消えている。タオルはいいけど地図をなくすと万事休すだ。 必死で捜索して、なんとか地図は発見した。だが現在地は定かでなく、破線ルートへのアプローチも失われた。もはやこれまで、谷を下ってバス道へ出よう。飯田というあたりに出るはずだ。 谷を下る踏み跡は降りるほどにしっかりしてくる。調子に乗って飛ばしていたら、シダに隠れた倒木でスネを強打した。 ようやくバス道が見えたところでズボンをめくって見ると、スネの2ヵ所で白い肉が露出し、血がダラダラ流れている。小さな絆創膏を何枚か重ね張りして、バス道に出た。 時刻は12時15分、山頂から1時間40分だった。 地形から現在地を確認すると、飯田に出る谷ではなく、志々伎山北面の小谷群の東端の谷を下ってきたらしいことが判明した。破線ルートに到達する手前で、踏み跡に惑わされて別の尾根を下ってしまったようだ。 読図の難しさを改めて思い知らされた。 (左)バス道に出たあたりからの志々伎山、上向きの刃物を横から見た感じ (右)船越からの志々伎山 そのあとは、再び降りだした小雨の中、バス道を1時間ほど歩いて船越へ至り、さらに1時間以上かけて志々伎湾対岸の大志々伎町まで歩いた。(ここから礫岩方面への道を探ったが、よくわからなかった) 歩いたルート 志々伎山はその特異な山体、立地の最果て感、厳しい気象条件、登山路に満ちる重厚な歴史、山頂の高度感と展望など、はるばる訪れた苦労を補って余りある名山だった。 少しずつ遠ざかるこの山を、何度も何度も振り返りながら後にした。 (登山日:06.12.28) →船越についてはこちら |
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