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2011.5.30(月) 千成湯 まいはーい。まっちゃんです。 台風一過、おだやかな夜だ。 この週末は何かと忙しかった。 土曜日は「ありがとう千成湯」に参加した。廃業する千成湯のおっちゃん、おばちゃん、常連さんたちを中心に、とても心温まるよいイベントだった。 こういうイベントを、廃業が決まってからではなくもっと前に企画できていれば、もしかしたら・・・と思わされるような空気があった。 ![]() ![]() イベントを企画された方々、お疲れ様でした。 そして100年間に及ぶ千成湯の歴史を担って毎日湯船を磨き続けてこられた経営者ご夫妻に、本当にご苦労様でしたと心から申し上げたい。 ところで明日もまた1軒、大阪の銭湯が廃業するらしい。今年はハイピッチだ・・・。 2011.5.27(金) 茨城 じめらますて。まっちゃんです。 もう梅雨入りやと? 今年の春は短かったなあ。 関西で桜が咲く季節に東北へ行ってたもんだから、余計に冬が長かった。 25日の日誌に書いた福島遷都案だが、すでに森永卓郎、塩崎恭久、村井嘉浩(宮城県知事)といった人々が提案しているらしいことを知った。 でも実現の可能性は低いやろなぁ。そんな英断が今の政府にできるとは思えない。 ところで先月は福島県へ入る前に、これまで一度も足を踏み入れたことのなかった茨城県にも行ってみた。 今回の震災では茨城県の北部沿岸も大きな津波被害を受けている。原発からの放射能によって農産物の出荷制限もあった。 4月26日、上野駅から早朝の常磐線の快速に乗って一路茨城へ。 常磐線は震災後しばらくは土浦までしか機能していなかったが、4月のこのころになってやっと県庁所在地の水戸から県北部沿岸の日立・高萩などを通って福島県いわき市までが開通していた。 列車が利根川を渡って茨城県に入ったとたん、それまで面白くもない住宅地が続いていた沿線風景は農地へと一変した。 土浦を過ぎると、さらに牧歌的な景色が広がる。関西では森というものは山にしかないが、このあたりは広大な関東平野が広がっていて、その平野の中に雑木林が点在しているのが関西人には新鮮だ。とくに大きなケヤキがあちこちに聳えている風景は西日本では見られない。 やがて緑の丘陵や湿地を抜け、広々とした湖の岸辺に沿って走った列車は、そのまま水戸駅のホームに滑り込んだ。 そうか、さっきの緑地は偕楽園、湖は千波湖だったのか。 水戸というと「黄門」か「納豆」しか思い浮かばないが、こんなふうに美しい緑と水のゲートで迎えてくれるオツな街だとは知らなんだ。 水戸駅でいったん下車して駅前のファストフード店で朝飯を食い、水戸城址を少し散歩した。 駅ビルは震災であちこち壊れた部分があるが、さほど深刻ではなさそう。水戸城址でも文化財の一部が壊れたようだが、歩いてすぐに目に入る大きな被害は見られない。 ![]() (左)駅前のご老公様ご一行 (右)水戸城址の弘道館は内部の一部損壊により当面閉館 ちなみに茨城県の銭湯は震災の前からすでにほとんどが廃業してしまっていて、水戸市には1軒も残っていない。 だが津波被害に遭った北部沿岸の日立市にはまだ3軒の銭湯があり、震災後もがんばって営業を続けているとの情報を日立市に住む方がお寄せくださった。 そこで、さらに常磐線を乗り継いで日立へ向かった。 日立市は沿岸部が津波に襲われた。しかし海岸沿いはわずかな平地の背後にすぐガケが迫り、その上は台地になっていて、市街の大部分がその台地上に乗っている。 そのため津波は市街地に及ばず、被害は最小限ですんだ。 ![]() (左)新築の日立駅からは崖下の沿岸部を一望できる。波打ち際に高架道路がある (右)駅前にある日立関連の宇宙的建物 日立市はその名のとおり日立製作所の企業城下町であり、その工場をとりまくように市街が広がっている。 3軒の銭湯はみな日立駅から徒歩圏内にあり、どこも300円でやっている。3軒を見て歩いたが、どこも「ゆ」の暖簾を出さないのが特徴のようだ。地元の常連しか来ないのであろうことが察せられる。 3軒のうち、駅からいちばん遠くて見た目も殺風景な松の湯に入った。 井戸水・薪沸かしの小さな銭湯で、人当たりのよいおかみさんが番台に座っている。 おかみさんによると、地震では建物や設備に被害はなかったが、停電で井戸水をくみ上げられず、3日間休んだ。 4日目に電気が戻ったので、「常連さんだけでも」と思ってお湯を沸かしたところ、煙突の煙を見てたちまち大勢の人が行列を作ったそうだ。 その日はごった返したが、翌日から3日間は整理券を配布し、30分交替で入ってもらった。4日目は薪がなくなって休んだものの、その翌日からは客数も徐々に落ち着いて、通常営業に戻ったとのことだ。 俺が行った時は、どこの銭湯でも見られる、のんびりとした空気が漂っていた。 「いつも閑古鳥が鳴いてる銭湯で、なにぶん初めての経験でとまどいました」 とおかみさんはおっしゃる。 常連客は、 「ここはワシのオアシスやから、あんまり混んでもろても困るな」と言って笑っていた。 その松の湯を「激渋銭湯」にあげといた。 2011.5.25(水) 福島(その4) まいはーい。まっちゃんです。 大阪市福島区の千成湯が今日で営業終了となり、今月中に解体工事に入る・・・という情報を得て、昨日5〜6年ぶりに入ってきた。 ここは大阪中央卸売市場に近く、市場関係者の利用も多い。 広々した浴室に石の湯船、漢方薬入りの露天風呂もあり、それらが隅々までピカピカに磨き上げられた、じつによい銭湯だ。しかも朗らかなおやじさんの人柄がすばらしい。 この銭湯が廃業とは、あまりにもったいない。 聞けば阪神大震災で漏水が始まり、修理を重ねてきたがどうにも止まらず、根本修理を見積もってもらったら非常に高額になって払えないので仕方がないということだ。 惜しい。じつに惜しい。 常連客が言うには、 「原発の格納容器と一緒やがな。東電の人に穴をふさぐ練習をここでしてもろて、うまいこと水漏れが止まったらそれを原発でやったらええねん。この風呂は放射能出てへんから安全や」 そういやここも福島には違いない。 この千成湯廃業に際して、地元・福島区野田に住む有志が、千成湯解体直前の5/27と28日(今週の土日)に「ありがとう千成湯」というイベントを開催される。 不肖俺様も急きょ、土曜日の夕方6時ごろからスライドトークで出演することになった。 参加費無料。お時間のある人はぜひお越しください。 話は大阪の福島区から東北の福島県に飛ぶ。 美しく豊かな大地に放射能をバラ撒いて使い物にならなくし、そこに暮らす人々から故郷を奪い、物的・精神的苦痛を与え、偏見・差別にさらすことになったこの恐るべき罪を、東電・政府・国民はどうあがなうのか。 その覚悟と方策について俺が考えるに、道は二つしかない。 ひとつは、福島の大地が完全に浄化されるまでの間、放射能の危険が及ぶ範囲の人々を、たとえ全福島県民200万人といえどすべて強制移住させるとともに、彼らにそれまでの暮らし以上の生活と仕事と生きがいを保証すること。 それができない、あるいはそこまでする必要はない、それほど危険でないと言うのならば、理不尽な物的・精神的苦痛と偏見と風評被害をすでに被っている福島の人々を慰謝し、事故の責任を負う覚悟と新たな被差別集団を生まない決意をはっきりと示し、事故の収束と汚染大地の浄化と風評被害の防止を本気で実行するために、日本の首都を福島に移転させるべきだと考える(もちろん東電本社も福島移転)。 そうなれば当然のことながら、政府・官僚・国会議員(と東電上層部)の全員が福島に住むことになる。 基本理念は、福島の人々を決してこのまま放り出さないということ。福島側に立つ。それに尽きる。 遠くの安全なところから「あ−します、こーします」と言ったって、もはや誰も東電や政府を信用していない。「福島は国が責任を持ってちゃんとする」ということを本気で示し実行するには、首都移転しかないのではないか。 首都の福島移転はべつに突拍子のないことではない。たしかバブル期の首都移転論議が盛んだったころ、福島は有力候補地のひとつだった。 東京から福島まで新幹線で1時間半だから、たいして不便もないだろう。 世界に放射能汚染が知れ渡ったフクシマに首都を移すのは外交上問題があるというのならば、外務部門だけを富士山麓かどこかに置けばよい。広島か長崎でもよい。 福島に首都を移転させたら、福島の人々はその政府の決意に安堵し、信頼し、未来に希望を持つことができるだろう。 福島に住むことになる政治家や官僚は、必死になって環境改善にベストを尽くそうとするだろう。 また日本の決意は世界にも尊敬されるに違いない。 いいことずくめだ。 この考えを福島の人に語ったら、その人はこう言った。 「ほんとだね。でも無理だろな・・・」 首都移転はあくまで福島県民に疎開の必要がないと言うのならば、の話。 本当に危険ならば移住してもらわなければならないのは言うまでもない。子どもだけでも。早急に。 函館の桐の湯を「激渋銭湯」にあげといた。 2011.5.21(土) 福島(その3) まいはーい。まっちゃんです。 福島県はここ数年、「うつくしま、ふくしま」というキャッチフレーズで観光誘致を図ってきた。 うつくしま、と言われても福島じゃピンとこないなあ、竹富島とちゃうねんから・・・と思ってきたが、実際に福島へ行ってみると、地元の人々がそんなふうに売り出したいと考える気持ちがわかってくる。 本当に美しいからである。 かねて噂を聞いていた桜の名所、花見山に行ってみることにした。 花見山は福島市中心部から3kmほどのところにある小高い丘だ。 例年ならシャトルバスや出店などがたくさん出てたいへん賑わうらしいけど、今年はすべて中止されている。 旅館のおばちゃんに「花見山へ行ってきます」と言うと、 「放射能に気をつけて」 とおばちゃんは言い、頭を覆ってマスクをする手振りをされた。自虐ギャグなのかマジなのか・・・たぶん両方だろう。 阿武隈川を渡り、ずんずん歩いて30分ちょっとで花見山の入り口についた。 残念ながら前夜の雨でソメイヨシノはきれいに散りきってしまっていたが、その他の花々もたくさん咲いている。 きらめく陽光、小川を流れる雪解け水。花は放射能などまったく意に介さずに咲き乱れ、鳥たちは忙しくさえずり、水路では早くもカエルたちの合唱が始まっている。 放射能を恐れているのは人間だけなのだな。 その風景を少しだけ写真でおすそ分けしたい。 ![]() ![]() ![]() 花見山の山頂へ 山頂からの福島市街 山頂からの吾妻山 ![]() まるで幸せが約束されたような土地だ。 ここに放射能を降らせてしまっている人間の愚かさは、まったくもって救いがたい。 福島で話した人は、原発の話になると異口同音に必ずこうおっしゃった。 「あのへん(原発のあった浜通り地域)は本当にきれいな、いいところだったんですよ」 すでに過去形になってしまっているのが悲しいが、ただでさえ美しい福島に住んでいる人々がそういうのだから、よほど美しいところであるに違いない。 福島の人々は、夏になると浜通りに出かけ、海で泳いで新鮮な魚を食べるのだという。福島市民にとって、夏の楽しい思い出がいっぱい詰まった場所、それが浜通り地方だ。 その浜通りが今、人類全体を危機に陥れる放射能の墓場になってしまっている。 警戒・避難区域にかかって故郷を追い出され、捨てさせられた人々の怨念は想像を絶する。 この恐るべき罪を、東電・政府・国民はどうあがなうのか。 被災地の復旧・復興とともに、その覚悟と方策について考えなければならない。 大阪市城東区のまねき湯を「激渋銭湯」にあげといた。 2011.5.19(木) 福島(その2) まいはーい。まっちゃんです。 4月27日、つるの湯を出たあと宿に入り、すぐに晩飯を食いに出たが、街外れの宿をとったため周囲になかなか飯を食うところが見つからなかった。 狭い路地でやっと中華らしき店を見つけて入ったら、驚いたことに周囲の町の寂しさからは想像もできない大繁盛ぶりで、カウンターも座敷もほぼ満席。店員も注文に追われまくっている。 俺は運良くカウンターに空いていた1席に座ることができたが、メニューを見たら餃子しか置いていない店だった。そして餃子はなんかしらんがすごい量が大皿に盛られて出てくるみたい。 仕方なく一人前の水餃子とビールを頼んだが、あとからあとから客が来て、入り口の椅子で待っている。何この店! 壁を見たら、いろんな有名人のサインや写真が張ってある。写真の横に「黒柳徹子さん3度目のご来店のとき」なんて書いてあったり。 どうやら福島の名物店に入ってしまったようだ。そして俺は知らなかったのだが、福島は餃子で売り出している街らしい。 だいぶ待たされて出てきた水餃子は、確かにたいへんうまかった。 だが俺はハラペコだったので、もっと別の中華メニューをがんがん食いたかった。 座敷のほうを見ると、テレビカメラを脇に置いた男たちや、「報道」の腕章をつけた女性キャスターなどがいた。震災取材で入っているチームが仕事の後に来ているのだろう。 そうかと思うと、奥にある別の座敷からもすごいカワイコちゃんのキャスターらしき女性が出てきて、店の人と何かやりとりしている。別のテレビ局らしい。 どうやらこの店は東京のマスコミご用達の有名店なのね。 元祖円盤餃子、満腹店の名は満腹だったが、水餃子だけで満腹にならなかった俺は、さらに繁華街まで歩いて、晩ご飯系の小さな居酒屋に入った。いろんなお惣菜を食べながら福島の地酒を飲んでいると、店のおかみさんが、 「福島に来るの、怖くなかったですか?」とおっしゃる。 「え? いやべつに・・・」 おかみさんによると、この店の常連客が仙台へ車で行き、コンビニに停めて買い物をしていたところ、店員にこう言われたそうだ。 「うちの駐車場に福島ナンバーの車を停めないでください。ほかのお客さんが怖がりますんで」 「同じ東北でもそんなのですよ。きのうは新潟に避難していた女の子が蹴られて入院したそうですし。福島の人間はよっぽど日本中で怖がられてるんですね。私たちは地震の後もごく普通に暮らしてるんですけども」 それで俺に「怖くないですか」と尋ねたわけか・・・。 「もう福島以外のどこへも行かず、私たちは福島の野菜を食べて、福島でひっそりと生きてゆきます」 おかみさんはそうおっしゃった。 県外へ避難した福島の人たちが、再び福島へ戻ってくるという話は多い。 子どもが避難先で「放射能がうつる!」といじめられ、「福島へ帰りたい」と泣くので帰ったというニュースも報道されたが、それは氷山の一角にすぎないだろう。 人々が恐れるフクシマ。まるで呪われた地ではないか。 翌朝、俺は宿のすぐ近くの阿武隈川の土手に上ってみた。 川にかかる橋から見た福島はこんな街だった。 福島雪を頂く吾妻山。その雪解け水を集め、悠々と流れる阿武隈川。 その狭間に抱かれるようにして育った街、それが福島市だ。 日本広しといえども、これほど美しい県庁所在地は、そうはない。 この美しく豊かな土地が放射能に汚され、日本中の人から蔑みを受けることになった。 それが今回の原発事故である。 川面には桜の花びらが浮かんでいた。 阿武隈の流れはこの花びらを、沿岸部の被災地へと運んでゆくのだろう。 「激渋銭湯」に九州別府・鉄輪の谷の湯をあげといた。 2011.5.18(水) 福島 まいはーい。まっちゃんです。 福島へは4月27日に行った。去年の夏に吾妻山に登って以来、8ヵ月ぶりだ。 福島は今、もはや「フクシマ」と化してしまった。 原発事故によって故郷が廃墟になるという、これまで反原発派の人々が「こうなったら終わり」と説いていたことが、まるで夢を見ているかのように(おかしな表現だが)現実のものとなった。 ドリームズ・カム・トゥルー。ただしそれは決して実現してほしくない夢、デビルズ・ドリームだった。 そして今も日々、状況は悪化の一途をたどっている。 もともと福島県は関西人にはなじみの薄い県だ。 とても大きな県で、一般的に「浜通り」「中通り」「会津」の3地域に大きく分けられる。関西感覚でいうと、このそれぞれが1つの県くらいの大きさがある。 「浜通り」はその名のとおり太平洋に沿った地域で、今回事故を起こした原発はここにある。福島県で人口最大のいわき市はこの地域の南端にある。 「中通り」は新幹線・東北道など交通の大動脈が通る阿武隈川ぞいの地域。県庁所在地の福島市はここにあるが、県の北端にあるため、中通り地域の中心地は郡山市といえるかもしれない。 「会津」は県西部の山に囲まれた盆地であり、今回の地震や原発事故の直接的な影響はまったくと言っていいほど見られない(避難民受け入れや風評被害などの間接的影響は大いにあるだろう)。 4月27日の夕方、いわきから高速バスで福島市に入った俺は、まず県庁の少し東にある銭湯、つるの湯に行ってみることにした。 福島市には温泉やスーパー銭湯が多くて、普通の銭湯はつるの湯たった1軒しか残っていない。 バスを降りて市の中心街を歩いてゆく途中、歩道の敷石などの割れ方は仙台よりもややひどいようだったが、やはり倒壊した建物などは見られない。車の通行量が多く、人通りもあって、それなりの活気は感じられた。 つるの湯に着くと、玄関先には湯上りの人たちが次々に出てきて、なかなか繁盛しているようだった。 つるの湯は小奇麗なビル銭湯だが、歴史は古く、大正13年から今年で100周年を迎えるらしい。浴室はこじんまりしていて、15人も入ればいっぱいになる。備長炭の入ったお湯がとても心地よい。 俺が行ったときは、会話の内容から支援関係と思われる中年の相客が7名ほどいた。 つるの湯風呂上り、おやじさんに話を聞いた。 福島市は震災後4日間断水した。つるの湯では地震で地下のパイプがやられたが、幸いにも断水中に修理してもらうことができたので、水が出た5日目から営業を再開した。 駅前のスーパー銭湯などは燃料不足で営業できず、福島市ではつるの湯だけが唯一営業している状態となった。大勢の客が連日詰めかけたため、整理券を配って朝から一日中営業し続けた。 震災後10日過ぎからは、南相馬市からの避難民が近くの小学校に滞在したので、さらに忙しくなった。 「1日分、10トンの水が1時間でなくなった」そうだ。 しかし4月になって小学校が始まると、南相馬の人々は南会津地方へと移っていった。またスーパー銭湯も営業を再開して、じょじょに落ち着きを取り戻してきた。 それでも自宅の風呂が壊れた人あるいは復旧・支援関係者らで、入浴客の数は4/27時点でもまだ普段より多いということだった。 福島市でたった1軒残った銭湯つるの湯は、震災後の1ヵ月とにかく懸命に湯を沸かし続け、孤軍奮闘・大車輪の活躍で市民と避難民の汗と垢を洗い流し続けたといえるだろう。 この点は、他の被災地周辺の銭湯となんら変わることがない。のだが・・・。 「しかしアレは余計だったなあ・・・」 警戒・避難区域の人々は言うに及ばず、福島県のすべての人に今、その許し難い現実が重くのしかかっている。 2011.5.17(火) 北海道 まいはーい。まっちゃんです。 ちょっと今日はゴムゾーリでは寒いかも・・・。 「激渋銭湯」のページについに北海道登場。函館の大正湯をあげといた。この街にしてこの銭湯あり! 函館それはウニイクラホタテ丼2011.5.16(月) 盛岡 まいはーい。まっちゃんです。 今年もゴムゾーリな日々が始まった。昨日さっそく100円ショップで新しいゴムゾーリを買った。 これから秋になって寒くなるまで、山に登るとき以外に靴および靴下を履くことはないだろう。 さて、4月9日、盛岡に行ったときのことを書いておこう。 3年半ほど前に一度立ち寄ったことがあるが、そのときは盛岡駅でバスから鉄道に乗り換えただけだったから、実質的に初めて訪れる街だ。 この日、俺は仙台から高速バスで盛岡入りした。 北海道を除く日本の都道府県でいちばん広い岩手県は、津波被害で壊滅した三陸海岸と、新幹線・高速道路などの国土軸が走る内陸部(北上川流域)に大きく分けられる。 県庁所在地の盛岡は内陸部にある。 駅前を出ると、さほど大きなビルもなく、やたらと広い道路もない。背後に雄大な岩手山が雪をかぶってそびえ、中心部を貫く北上川は雪解け水が豊かに流れている。 静かでこぢんまりとまとまった、さわやかさを感じる美しい県庁所在地だ。 見た感じ、地震による被害はほとんど目に入らない。 盛岡に銭湯は多くない。 繁華街の近くに清川湯というビル銭湯がある。「燃料の都合で営業時間を短縮」との張り紙があった。たまたま風呂上りで出てきた女性に「混んでますか?」と尋ねると、そうでもないという答えだった。 清川湯の表示そこから15分ほど歩いた住宅地にある梅の湯は、2階が喫茶店になったちょっと変わった銭湯だ。裏に燃料用の廃材が積んである。 事前の調べではこの日は定休日のはずだったが、なぜか暖簾が出ている。ちょうど湯上りで出てきたバアサンが「やってますよ、今すいてますよ」とおっしゃるので、そのままお邪魔した。 梅の湯おかみさんによると、本当は今日(第2土曜)は休みだが、一昨日(4/7)の地震で停電したため昨日は夕方5時からしか開けられなかった。そのかわりに今日その時間ぶんだけ営業しているのだという。 律儀な銭湯だ。 梅の湯は昭和51年に建てられた古い銭湯だが、地震による被害はほとんどなく、盛岡市は断水もなかったため、3月11日は地震当日から営業した。 給湯器が故障した近所の人などで、しばらくは普段の倍くらいのお客が来たそうだ。 「岩手、というくらいで地盤は固いんだ。被害なんかネエ。それに岩手県は日本で一番でかいんだ。津波がきた沿岸部は盛岡から車で2時間もかかる」 ところが、岩手県というだけで都会の知人らから支援物資が送られてきた。 「段ボール箱にカップラーメンとか水まで入ってんだ」 と言って笑っておられた。 湯上り、晩飯&酒へ。 繁華街でもとくに営業中止の店が多いようにも見えず。郷土料理店と洋食系居酒屋に入ったが、三陸の海産物がないこと以外は普通に営業していた。 ただし客は少なめで、とくに県外客が中心であろう郷土料理店はすいていた。 翌朝の日曜日は、朝湯をやっている菊の湯へ行ってみた。駅前から3kmほど離れているが、宿で借りた自転車で北上川の土手をスイスイと走って20分ほどで到着した。 ここも薪沸かしの銭湯で、道の向かいに大量のおがくずと材木がある。 菊の湯のレンガ煙突菊の湯も地震による被害はなかったが、停電のために地震当日とその翌日の2日間休んだ。その後、自宅の石油がなくなったといった人々でふだんの2〜3倍の客があったそうだ。 やっぱり薪で沸かしている銭湯は強いね。 「一昨日の余震のときは営業中でした。停電したので、お客さんに『地震です、上がって!』と言ったけど、『大丈夫だよ』と言って真っ暗な中でそのまま入ってた人もいました」 日曜の朝風呂は近所の人たちでいつもながらの和やかな情景だった。 自然環境に恵まれたこの地方は水質もいいのだろう。それをおがくずで沸かし、さらに備長炭とヒノキ片を浮かべたお湯はなんともやわらかく、朝っぱらから極楽を堪能させてもらった。 被災県といえども、東北地方の広大さは狭い京阪神感覚では捉えきれない。 テレビでは津波で壊滅した沿岸部の映像ばかりが繰り返し映し出されるが、盛岡では仙台以上に街の美しさが印象に残った。 岩手のど根性シンボル、石割桜と東北の話をしつつ、九州・別府の四の湯温泉を「激渋銭湯」にあげといた。 2011.5.13(金) 仙台の銭湯 まいはーい。まっちゃんです。 おだやかな晴天、いい季節ね。ひさびさに日中更新だ。 さて4月8日、荷物をコインロッカーに預けて仙台市内の銭湯を5軒見て歩いたときのことを書いておきたい。 まずは市バスに乗って宮城野区の錦湯へ。 この銭湯が震災後、3月31日で廃業されたということは聞いていた。復旧支援活動で仙台入りした方がたまたま銭湯文化サポーターズのメンバーで、その人がサポーターズのブログに報告されていた。震災後がんばって営業を続けていたが、ご高齢のご主人が体調を崩されて、関東の親戚を頼って仙台を離れられたということらしい。 その後もしや変化はないかと思ったが、どなたもおられなかった。4月7日の余震でさらに内部が損傷しているようすだった。 ![]() (左)廃業告知 (右)利用客が貼り付けたと思われる紙 俺が錦湯のまわりをウロウロしている間にも、何人かの人が風呂を求めてやって来ていた。 ヨチヨチ歩いてきた腰の曲がった老婆に「廃業なさってますね」と声をかけると、「あぁ、そうかい・・・せっかく遠くから来たけんど・・・」とつぶやいて、また帰って行かれた。 廃業した錦湯をしばらくぼーっと眺めていたら、自転車で通りかかった50代のおじさんが、「ここはやめてるだろ」と声をかけてきた。俺が「近くに喜代の湯というのがありますね」と言うと、 「あそこは混んでるからね。もう1軒あるよ。○○通りをずっと行って○○そろばん教室の角を曲がったところ」 「それは何という銭湯ですか」 「花の湯。普通に入れますよ」 と教えてくれた。 まずは10分ほど歩いたところにある喜代の湯に行ってみた。ここは東北入浴サイトづくりのために電話したときは、たしか12時から整理券を配布して2時から営業していたところ。 ビルの2階が銭湯になっているが、建物の前に「4時から営業」「整理券は配布しません」との表示があった。一時の混雑はいくぶん緩和されてきたのだろうか。 まだ3時だったが、とりあえず2階へ上がってみると、閉じられた銭湯入り口の薄暗い場所に、男性2人、女性2人がすでに並んでいた。 男性の一人に、「これは4時の営業を待っておられるんですか?」と聞くと、「そうです」とおっしゃる。 「こないだ日曜日に来たんだけど芋洗い状態だったので、今日は仕事が早く終わったから平日に来てみたんだよ」 とのことだった。 ビル裏へ回ってみたが誰もいなかったので、とりあえずその場を離れ、錦湯前で教えてもらった花の湯へ行ってみた。 喜代の湯から歩いて20分くらいの住宅地に、こぢんまりとした花の湯があった。暖簾の脇に「入浴時間は15分」との張り紙があった。 ![]() 俺は今回の旅行では、銭湯に入るつもりはなかった。阪神大震災のとき、自宅近くの生き残った銭湯は連日芋洗い状態で、そんなところに被災者でもないヨソ者がノコノコ入っては申し訳ないからだ。 花の湯はすでに暖簾を出していた。ちょうど入浴を終えて出て来た男性がいたので、「混んでますか」と声をかけてみた。すると、 「ぜんぜん。ゆっくり入れますよ。どうぞどうぞ」 とうながされてしまった。尋ねておいて断るのも妙なので、なんとなくそのまま入ってしまった(と言いつつじつはタオルと石鹸を常に持参している俺)。 番台にはおかみさんがいて、料金を払うときに「15分目安でね」と念を押された。 だが、お客は脱衣場に2人、浴室に3人くらいだった。小さな古い銭湯だがとてもきれいに管理されていて、窓から差し込む陽光がすがすがしい。 混んでくる前にと、とりあえず素早く入った。一つきりの湯舟に満たされたお湯は透き通っており、しかも肌触りが異様に心地よい。なんだこの気持ちよさは! 壁に「驚異の鉱石、ブラックシリカ」と書いたプレートが張られており、湯船の底には外壁ブロックくらいの大きさで豆腐型をした真っ黒い石が沈んでいた。この心地よさはこいつのせいか!(その後、東北の多くの銭湯にこのブラックシリカなる鉱石が使われていることを知った) きっちり15分であがったが、それほど混んでくることはなかった。 おかみさんは「今日は変ね?」と首をひねっておられたから、前日まではかなり混んでいたのだろう。 話を聞くと、地震による建物や設備の被害はなかったそうだ。8日目くらいに水が出たので、とりあえず手持ちの燃料で営業を始めたという。 ところが、いきなり何百人もの客が来たため、3日はもつと思った重油は1日でなくなってしまった。薪でも沸かせるが、それを運んでこようにも車のガソリンがなくて運べない。 結局3月は、2日営業しては燃料が手に入るまで3日休み、というかたちでやってきたらしい。4月に入って燃料供給が安定し、やっと平常営業に戻ったとのことだった。 おかみさんは非常に感じのよい方で、最後に「神戸の方とお話できてよかったです」と言ってくださった。 俺は思わず涙が出そうになった。 元被災者でありながら、現地ボランティア活動をするわけでもなく東北をウロついていた俺の心には、ここまで一抹の後ろめたさがこびりついていた。 「来てよかった」と、俺はそのときにやっと思えた。 被災地に入った多くの人が「こっちが逆に元気をもらえる」と言うのは、結局こういうことなのだろう。 被災者と支援者は必ずしも「助けられる者」と「助ける者」というだけではなく、「迎える人」と「訪れる人」でもあるし、「すでにがんばっている人」と「がんばりたい人」でもあるし、「受け入れる人」と「受け入れてもらう人」でもある。 どれにしたって重要なことは、そこでお互いにとって好ましく響きあうことだろう。 花の湯を出て30分くらい歩き、仙台駅から一番近い青葉区のかしわ湯へと向かった。 かしわ湯は商業地区のビル地下にある。表に「3時から湯がなくなるまで」と張り紙があった。 地下への階段は途中でカーブしていた。下りきったところで俺と同年代の女性が犬といっしょに番をしていた。 「混んでます?」と聞くと、「いえ、普通にすぐ入れますよ、どうぞ」とまた促された。 でも花の湯で入ったばかりだった俺は、瞬間的に「いえ、今はちょっと・・・何時ごろまで入れますか」と聞いた。すると女性は少し考えて、「6時」とおっしゃった。 このときすでに5時だった。営業3時間で湯がなくなるとは、前日の大きな余震の影響で給湯装置になんらかのトラブルがあったのかもしれない。 後ろ髪をひかれながらも、俺はかしわ湯の貴重なお湯を使うのは遠慮することにして、その場を辞した。 最後に地下鉄に乗って、長町の鶴の湯へ向かった。 鶴の湯は長町駅の近くだが、銭湯のある路地はテープでさえぎられ、立ち入り禁止になっていた。テープをよけて入ってみると、鶴の湯の隣の建物は粉々に崩壊しており、向かいのクリニックも外壁などが崩れている。仙台に来てはじめて見る、本格的な建物被害だ。 鶴の湯のビルはしっかり建っていたが、1階のコインランドリーも2階の銭湯も休業していた。建物の柱にはこんな紙が張られていた。 ![]() (左)誰かが小さな字で「ガンバレ!」と書き込んでいる (右)4/28の再訪時。奥左の白い建物が鶴の湯 後日、4月28日に鶴の湯を再訪してみたら、元気に営業中だった。向かいのクリニックは全体が幌で覆われていて、取り壊しを待っている状態。路地の入り口に「つばさ薬局、鶴の湯に御用の方以外は通行禁止」となっていた。 この日は午前中よく歩いたし、銭湯の客足ももうすっかり落ち着いた様子だったので、入浴させていただいた。早い時間ということもあって、浴室は近隣住民4〜5人ののんびりとした空間だった。 上がってご主人にうかがうと、地震によって水タンクの支柱が折れ、そのため接続パイプがみなちぎれて外れてしまったそうだ。地震後5日間は停電のため修理もできず、電機が戻った6日目にさっそく修理してもらい、7日目から営業を開始したという。 3週間は非常に混雑し、整理券で対応したが、その間に起きた4月7日の大余震で再び水タンク支柱が折れて水浸しとなり、3日間休んで前回と同じ修理をした。 震災後1ヵ月目には周辺地域にガスが戻るとともに客足は落ち着き、「いつつぶれてもおかしくない普段の状態」(ご主人談)に戻ったという。 鶴の湯もカラン数13のこぢんまりとした銭湯だが、広いロビーから脱衣場、浴室まできわめて清潔。風呂は例のブラックシリカ入りで極楽度は高い。 震災後、壊れた配管を直ちに修理しながら整理券を配り続けた鶴の湯さんがこの地域に果たした功績は大きい。自宅にガスが戻っても、たまには地域の財産としてのこの心地よい風呂に通う人が増えてほしいと願わずにはいられなかった。 仙台で訪れた銭湯は以上だ。 この震災で仙台市内の銭湯は3軒(4軒か?)が廃業されたようだ。 4月10日に八戸で入った恵比寿湯を「激渋銭湯」にあげといた。ゴージャスなタイルがすごいぞ! 八戸は漁港が大きな被害を受けたが、港に比較的近いこの銭湯は地震の被害は全然なし、停電で3日休んだだけで、客の数もべつに増えなかったとのことだ。 2011.5.11(水) 仙台 じめらますて。まっちゃんです。 梅雨を思わせる降り方ですな。傘を差して久しぶりに大阪・谷9へ行った。 今日で東北の地震発生から早くも2ヵ月。 これを機に、俺も東北で見聞したことを少しずつ書きとめておくことにする。 地震発生後、最初に東北に入ったのは4月8日の仙台だった。 その前日は新潟にいて、夜に大きな地震があった。新潟では震度4だったが、ホテルの9階にいたせいもあって、1分以上にわたってユッサユッサと大きな横揺れが続き、気持ちが悪かった。 これが4月7日の「震度6強の余震」で、東北の東部では3月11日の本震よりも強い揺れに感じられたというやつだ。 この地震のおかげで、日に日に復旧路線を伸ばしていたJRはまたもや運休が相次ぎ、青春18きっぷの残り3枚は紙くずとなってしまった。 やむなく俺は新潟から高速バスで仙台に入った。 バスは地震の影響を受けることなく、予定通りに運行した。半分ほどの乗車率だった。 乗客に救援・支援ボランティアらしき人はおらず、帰省っぽい姿の人からスーツ姿のOLまで雑多なメンバーだった。韓国人の家族連れも一組いたが、さすがに車内は静まり返っていた。 バスは磐越道を走って越後の雪山を越え、無傷の会津盆地を横切り、美しい磐梯山を回り込んで福島盆地から宮城県へと入っていった。 再開して間もない東北道はそのあたりから路面に段差が多くなり、バスは速度を落として走った。 この頃、東北の状況があまりわかっていなかった俺は、到着を前に緊張していた。頭の中では、阪神大震災のときの神戸の街の姿がまわっていた。 だが仙台駅に降り立った俺は、いくぶん拍子抜けした。 仙台駅は前日の余震で水漏れなどの被害があったため閉鎖されており、駅舎全体に再建工事のための幌がかぶせられていたが、神戸のときのように倒壊したビルや粉塵と化した建物は見当たらなかった。広場や公園でテント生活する人の姿も見られない。 整然とした街路やガラス張りのビルを見上げて、「きれいな街やなぁ」と感心したほどだ。 ![]() (左)1枚のガラスも割れていない (右)青葉通り ただし、東北の中心都市らしく人通りは多いものの、荷物などから察するに大部分は地元の人々で、救援・支援ボランティアや旅行者らしき人の姿もほとんどない。シャッターを下ろしている店も多く、賑わいにはほど遠かった。 駅近くのコンビニには商品がほとんどなかった。コンビニの棚が空っぽの光景は見たことがないのでギョッとしたが、それ以上に、この状態でもレジに2人の店員がちゃんといて営業中であることに驚いた。 それにしても俺のように用事もない人間がこうして関西からやって来れるのに、なぜコンビニの商品が届かないのか不思議に思った。 (俺自身は食料や飲み物を持っていたからコンビニの貴重な商品には手を出していない。念のため) 4月8日のファミマコンビニに商品はなかったが、街にはあちこちでサンドイッチやおにぎりを売っている店があった。ただし足を止める人はあまりおらず、さほど売れ行きがいいようにも見えなかった。 寒い店頭に立って、「ドーナツにサンドイッチいかがですか〜!」と一生懸命呼びかけている若い女性になんとなく同情して、俺はべつに腹は減っていなかったけどサンドイッチを一つ買った。女性は満面の笑顔で、「これはイタリアのハムを使ってるんです!」とそのサンドイッチをPRした。 その後、俺は仙台市内の銭湯を5軒訪ね歩いたが、その道中、瓦や外壁が崩れた建物はあちこちに見かけるものの、倒壊した建物はやはりほとんど見あたらなかった。 阪神大震災の震度7と今回地震の震度6強の違いによるものか、それとも阪神後の17年間で建物が耐震化されたのか、それはよくわからない。 夕方になって駅近くのアーケード街の居酒屋に入ってみた。店頭の黒板の、「再開しました! おいしい魚入ってます」といった元気な文字にひかれたからだ。 こぎれいな店内には、厨房に3人の男性、ホールに3人の女性、合わせて6人が働いていた。でも客は俺を入れて2〜3人だった。メニューはまともで、魚もうまかった。 ホールの20歳くらいの女性に、「ここは夕べの余震でも大丈夫だったの?」と聞くと、「大丈夫です。ガスもきています」と言う。 「きみの自宅は?」と聞くと、「昨日まではガスが来ていたんですが、夕べの地震でまた止まってしまいました」とのことだった。 駅前のわかりやすい場所だから、普段なら出張族の利用が多いのかもしれない。がんばって店を再開しても、こんなに客が少ないのは気の毒に思った。 俺はその日のうちに仙台を離れたが、4日後の4月12日に再び仙台へ戻って同じコンビニに行ってみたら、8日よりもずっと商品は増えていた(それでも平常時の半分にも満たない感じ)。 4月12日の同ファミマ4月12日にはまた、あきらかにヨソ者らしき、大きな荷物を背負った人や長靴を履いたボランティアなどが街に増えていた。さくら野デパートの地下食料品売り場も再開していた。 最初に行った4月8日は、たまたま前日の巨大余震の影響で一時的に仙台がストップした日だったのかもしれない。 いずれにせよ、今回の地震では、津波被害に遭った沿岸部と、そうでない地域とはずいぶん様子が違っているようだ。 俺がとらわれていた阪神大震災のイメージ、すなわち神戸全体がメチャメチャになって街中の空き地という空き地が避難テントに埋め尽くされて、ある意味みんな平等に「被災者」になったような、あのイメージをもって東北全体を見てはいけないなということが初日でわかった。 仙台には4月28日にも行った。このときはすでにJR東北本線が開通していて、福島から午後の在来線列車で入った。ゴールデンウィーク開始前夜のせいか、名取からは仙台へ遊びに行く人々でギッシリ満員となった。 その夜は国分町のカプセルに泊まったが、飲食店・風俗店がひしめく繁華なその界隈は元気いっぱい、人もいっぱい。俺はなんとなく疲れて早々とカプセルにこもり、テレビでスーちゃん追悼キャンディーズ特番を見て過ごした。 その翌朝には東北新幹線が青森まで全通した。 もはや仙台は津波被害に遭った沿岸部を除いて、東北の中心都市としての活気を取り戻しつつあるように見えた。 4月28日、新緑の定禅寺通り仙台の銭湯の状況についてはまた明日。 そういや昨日、姫路の花影湯を「激渋銭湯」にあげといた。 2011.5.9(月) 東北の旅 まいはーい。まっちゃんです。 今日はまた初夏を思わせる一日だった。 昨日はふろいこか〜ラジオ5/26放送分の収録日だったが、これまた超晴天のもとでの野外録音となって、ひさびさに汗ばむ感触を楽しんだ。 じつは朝起きたときから体調が崩れる前兆を感じていたのだが、暑い中を歩き回るうちに治ってしまったみたいで、結局収録後に3軒ハシゴで飲んでしまった。 やっぱり俺は暑いほうが調子ええなー。 そういやこのラジオも始まってからはや1年が過ぎた。そして現在、1周年記念特別バージョンとして、4月26日から4回にわたって毎週火曜日にオンエア中だ。 ロケーションも、これまでの京都・大阪・神戸の銭湯を順繰りに訪ねるものではなく、九州まで遠征しての収録を行なった。 1週目は九州へ向かう船中での録音。2週目は目的地へ向かう途中の道と、目的銭湯に着いて風呂に入って飲み食いしたあとの録音。 そして明日5/10は、おかみさんへのインタビューを中心とした3週目がオンエアされる。 しゃべりの内容は、訪ねた銭湯のあまりの極楽ぶりに、全員がいまだかつてないグダグダトークとなってるけど、それも致し方ないと言わざるを得ない。必ずみんながこうなるであろうという、とにかく極楽度300%のスペシャルな銭湯だ。 よろしければここをクリックしてお聞きくださいね。 風呂あがり(この極楽スペースも銭湯の一部)ところで当日誌読者の方から、俺が震災後2度にわたって東北へ行ったことについて、「被災地及びその近辺の銭湯はどのくらい訪ねてきたのか?」とのご質問をいただいた。 先月からの2度の東北行きは、べつに支援ボランティアをしに行ったわけでもないし、被災銭湯について何らかの調査をしに行ったわけでもない。 たんなる旅行である。 ただ俺は阪神大震災の元被災者ということもあって、今回の震災によってなんとも説明しがたい個人的感情がいろいろと湧き起こり、どうにも部屋にじっとしていられない、かといって出かけるならば東北以外に考えられない、東北へ行かねばどうにも気持ちがおさまらない、ということでただただ足が勝手に東北方面へ向いてしまったという、それだけのことだった。 別な言い方をすれば、俺は東北の空気を吸いたかった。 阪神大震災は、いろんな面で俺のいまの生活の基盤に大きな影響を残している。あのとき、いったんゼロになった。多くを失った反面、人生なかばにしてゼロに立てたことは貴重な体験だった。 あのゼロが今、東北にある。その空気をもう一度吸いたかった。 いま東北の人々はゼロ体験をなさっている。その人たちに会いたかった。 本当は現地でボランティア活動をしたらもっと気分的にスッキリできたかもしれないが、俺は集団行動はできないタチなうえに腰痛持ちだから諦めた。 東北へ出かけたからと言って、べつに津波の被災地を見物してまわったわけではない。 阪神大震災当時のことを思い起こすとき、おもに2つの相反する感情がまざまざと思い出される。 ひとつは、自分の暮らしている街が激しく傷ついて血を流している、その醜い患部がテレビカメラで鮮明に映し出され、全国のお茶の間に流されている、いわば「さらしものになっている」というような怒りを伴う心の痛み。 もうひとつは、全国の大勢の見知らぬ人たちが自分たちのことに関心を持ち、心配し、手を差し伸べてくれているという、ぬくもりと心強さ。 俺は東北に行ったって、津波でメチャメチャになってテレビやインターネットで全世界のさらしものになっている場所を見てみたいなんて思わなかった。それはもうテレビなどで嫌というほど見ているし。 久慈から階上への代替バスや、仙台から塩竃への臨時バスがそういった場所の一部を通ったために偶然目にした部分もあるが、俺のようにガレキ撤去ボランティアもしない人間がそういった壊滅地域を眺めるのはむしろ申し訳ないように感じた。 そんなこともあって、津波で壊滅的被害を受けた地域には足を踏み入れていない。(床上浸水被害を受けた中間的地域は塩竃と宮古で多少歩いた) さてここでやっと「銭湯はどれくらい訪ねたのか?」というご質問に戻ると、4月8〜12日には仙台・塩竃・盛岡・宮古・久慈・八戸の銭湯、4月26〜5月2日には日立・いわき・福島・仙台・青森などの銭湯、全部あわせて20軒ほどまわった。 このうち半分ほどの銭湯で、震災後の話を聞かせていただくことができた。 今回の震災が阪神大震災と大きく異なる点は、津波による被害が大きな部分を占めたことだろう。逆に地震による倒壊などの被害はさほど深刻ではない。 俺がまわった範囲では、生き残った銭湯(=津波が及んでいない地域にある銭湯)は、ほとんど無傷か、水タンクや配管がゆがんで1〜2日の修理を要した程度の被害だったというところがほとんどだった。 地震被害がさほど深刻でなかったため、津波が及んでいない地域ではライフラインの復旧は意外に早かった(阪神大震災のとき俺の家にガスが復旧したのは4ヵ月ほど経ってからだった)。そのため地震後1ヵ月も経つころには、俺が回った範囲の銭湯はすでに地震前の平常の姿に戻りつつあった。 だが今回の震災が阪神大震災と大きく異なる点はほかにもある。そのひとつは、被災地域の広大さだ。 2度にわたって東北へ行ったとはいえ、俺が歩けた範囲などコメツブほどでしかない。その狭い見聞をもって、「東北はこんなふうだった」とは決して言えない。 したがって上記紫色で示した俺の観察は、あくまでも俺の狭い行動範囲のことに過ぎず、東北の状況を示すものとは言いがたいということだ。 ライフラインの復旧度合いは地域によって大きく異なるに違いない。とくに三陸海岸あるいは原発周辺の孤立したような地域はなおさらだ。近くに避難所があるかどうかによっても入浴施設の状況は大きく異なるだろう。 そのあたりの実態についてはさっぱりわからない。 それに俺はおもに交通の便の問題から、郊外の温泉やスーパー銭湯はほとんど訪れておらず、見たのは市街地の銭湯のみだ。 東北での見聞をここに書くことを今日まで躊躇していたのは、そのような俺の精神・趣味・見聞の偏りによる。 が、話を聞かせてくださった銭湯については、きわめて限定的な知見ではあるが、近いうちになんらかのかたちでまとめたい。 東北入浴サイトはまだまだ更新続行中。GWを経て、通常営業時間・通常入浴料金に戻った入浴施設が一気に増えたようだ。 2011.5.7(土) 東北長し、そしてトンボロ まいはーい。まっちゃんです。 ぬくいなあ神戸。ぬくいってラクやなあ。着込まなくていいし、寝るときも油断しまくりだ。 東北と一口に言っても、福島県いわき市から青森県の下北半島までは、東京〜大阪間よりも遠い。それがほぼ南北タテに延びているから、福島と青森の気候はまるで違う。 そのことは地理マニアの俺でさえ、よくわからなかった。 4月28日、福島市にいた俺は花見山という桜の名所に登ってみたが、ソメイヨシノは完全に散ってしまったあとだった。 その日の午後、仙台に移動したら、定禅寺通り(日本の道100選らしい)はケヤキの新緑に覆われていた。 その翌日、一気に青森へ北上し、駅を出たら寒い寒い。満開を期待した弘前城の桜はやっと3分咲きというところだった。 5月3日には津軽海峡を渡って函館へ行ったが、関西的感覚では完全に冬。吐く息は常に真っ白で、一日中暖房入れっぱなしでないとおれなかった。 きのう神戸に帰ってまずびっくりしたのは、六甲山がモコモコの緑に包まれていたことだ。 函館の山は上半分に雪をかぶり、あとは全部枯れ木色。わずかに川岸の柳が芽吹き始めたばかりだったのになぁ。 ところで函館といえば、日本最大のトンボロなのね。ついに行きましたよ! 多くの人はトンボロと知らずに、その不思議な風景を見るため函館山へ詰めかけているわけだけど、彼らはみな潜在的トンボロファンと言ってもいいのではなかろうか。 がんばれ甑島! はぁ〜るばる来たぜトーンボロ〜1ヶ月ほど前に行った東京都荒川区の帝国湯を「激渋銭湯」にあげといた。大感激のパーフェクト銭湯。 2011.5.6(金) 夜汽車 まいはーい。まっちゃんです。 寝台特急「日本海」で今朝帰ってまいりました。 今回は生まれて初めて茨城県に足を踏み入れるところから始まって、福島から東北地方を北へ縦断し、さらに海を渡って函館まで足をのばした旅であった。 吐く息も凍る北海道からわずか半日で、じっとりと汗ばむ関西へ帰ってきてしまった。気温の上昇とともに、その車窓風景の驚くべき季節逆回転式変化よ。 日本列島はなんと南北に長く、自然はなんと律儀に緯度に付き従うものなのか。 くわしくはまた後日。とりあえずオヤスミ・・・。 いか寿司(青森) |
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